須佐之男命(素戔鳴命)

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに()

島根県松江市佐草町

八重垣神社

壁画・素戔鳴命

壁画・稲田姫

八重垣神社の由緒書に

素戔鳴命が出雲の斐の川上にこられた時、稲田姫を中に老夫婦(脚摩乳・手摩乳)が泣いておられる様をご覧になって、その理由をお聞きになり、悪者、八岐大蛇を退治して稲田姫をお救いなされたのであります。

この時素戔鳴命は、稲田姫を斐の川上から、七里を去った佐草の郷、佐久佐女の森(神社境内)の大杉を中心に八重垣を造って姫をお隠しなされ、八岐大蛇を御退治になってから、ご両親の脚摩乳・手摩乳のお許しを得て、佐草の地に宮造りされて、

「八雲立つ出雲八重垣妻込めに、八重垣作る、その八重垣を」という妻を娶った喜びの歌をうたわれてご夫婦の宮居とされ、縁結びの道をおひらきになった。すなわち、二方が両親の承諾を得られた正式結婚の初めの大神であります。

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八重垣神社は縁結びの神さまとして有名である。素戔鳴命が両親に正式に結婚を申し込んで承諾を得たと由緒はいう。

境内には鏡の池があって、由緒に、

この池は稲田姫命が八岐大蛇の難を避けるため、森の大杉を中心に八重垣を造ってご避難中、日々の飲料水とされ、また御姿をお写しなされた池で姿見の池、鏡の池という。縁結びの占いの池として紙片に硬貨をのせ、縁の遅早を占い早く沈めば良縁早く、遅く沈むと縁が遅いといわれています。

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「壁画」について、これも由緒に、

元、本殿内の壁画は寛平五年八月、国庁の御造営の際本殿胴板に描かれた壁画で、巨勢金岡の筆と伝えられ、古色蒼然、雄渾な筆力は、日本神社建築史上類例のない壁画と推賞され、国の重要文化財の指定を受け、我国絵画史上最も貴重なものとされています。壁画の板は、鉋の無い時代に槍鉋を用いて板を削り、白色塗料は胡粉が中国から伝わらない時代で、白土を用いて塗りその白土の上に描かれたもので約1100年前のものであります。

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ところで、神社由緒にある「佐草の郷、佐久佐女の森に宮造りされ」とあるが、

八重垣の歌を詠った宮は、『古事記』にも『日本書紀』にも「須賀」とは記されているけど、「佐草」の地とはどこにも記されていない。『出雲国風土記』はまったく八岐大蛇のことを記さないし、すがすがしいの話もない。さて、佐草の八重垣とは・・・。

でも素戔鳴命と稲田姫の描かれた壁画はすばらしいし(神社宝物館で見ました)、若い女性が鏡の池で良縁占いをしているのはとても微笑ましい。

おっちゃんもやってみた。「縁談、良縁となる。北と西」と透かし文字が出てきたけれど、ちっとも沈んでくれない。

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『古事記』

故是を以ちて其の速須佐之男命、宮造作るべき地を出雲国に求ぎたまひき。爾に須賀の地に到り坐して詔りたまひしく、「吾此地に来て、我が御心須賀須賀斯。」とのりたまひて、其地に宮を作りて坐しき。故、其地をば今に須賀と云ふ。?の大神、初めて須賀の宮を作りたまひし時、其地より雲立ち騰りき。爾に御歌を作みたまひき。其の歌は、

   八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

ぞ。是に其の足名椎神を喚びて、「汝は我が宮の首任れ。」と告言りたまひ、且名を負せて、稲田宮主須賀之八耳神と号けたまひき。

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『日本書紀』

第八段本文

然して後に、行きつつ婚せむ處を覓ぐ。遂に出雲の清地に到ります。乃ち言ひて曰はく、「吾が心清清し」とのたまふ。此今、此の地を呼びて清と曰ふ。彼處に宮を建つ。或に云はく、時に武素戔嗚尊、歌して曰はく、「や雲たつ 出雲八重垣 妻ごめに 八重垣作る その八重垣ゑ」。乃ち相与に遘合して、児大己貴神を生む。因りて勅して曰はく、「吾が児の宮の首は、即ち脚摩乳・手摩乳なり」とのたまふ。故、号を二の神に賜ひて、稲田宮主神と曰ふ。已にして素戔嗚尊、遂に根国に就でましぬ。

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