太安萬侶 稗田阿礼

奈良市此瀬町

太安萬侶墓

太安萬侶(太安麻呂とも)は、和銅四年(711)九月、元明天皇の詔をうけて稗田阿礼の暗誦していた「帝紀」「旧辞」を撰録し、翌年『古事記』を献上した。

太安萬侶墓

太安萬侶墓は、奈良市の東山山中の田原の里に所在する奈良時代の火葬墓である。

昭和54年1月、茶畑で発見されたもので、出土した銅製墓誌により安萬侶の墓であることが明らかになった。

墓誌(左写真)には、「左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之養老七年十二月十五日乙巳」の四十一文字が刻まれ、居住地、位階と勲等死亡年月日、埋葬年月日を記してある。(養老七年・723年)

墳丘は直径4.5bの円墳と推定され、埋葬施設は中心部に墓坑を掘り、底に木炭を敷いて墓誌を置き、その上に木櫃を安置に、四周と上面を木炭で覆った木炭槨であった。さらにその上の墓坑全体にうすく木炭を敷いた後、砂質土を版築状に硬くつき固め、木櫃の中には火葬骨、真珠等が収めてあった。

奈良県田原本町多に、式内社・多坐弥志理都比古神社がある。

祭神は、神武天皇 神八井耳命 神渟名川耳命 姫御神

多坐の「多」は、太安萬侶の「太」と同意の字で、多氏(太氏)の祖神を祀る神社であり、太安萬侶の氏神さんということ。

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稗田阿礼

諸家に伝わる「帝紀」や「旧辞」を整理編集しようとした天武天皇は、舎人であった阿礼に命じ、それらを誦習させたという。阿礼28才。

阿礼は聡明で、どんな文も見ればすぐに音読し、一度聞けば二度と忘れることがなかったという。すごい記憶力ということだ。

天武天皇が亡くなったため、編集作業は中断していたが、和銅四年(711)、元明天皇が太安萬侶に命じて阿礼の誦習していた事柄を撰録させ、翌年に『古事記』として完成した。

それにしても、誦習したとはどういうことやろ。「帝紀」や「旧辞」は文字で記されたものだと思うけど、それだけではなく、家々に伝わる口伝・口承の類も阿礼はみんな聞いて覚えたということだろうか。

『古事記』三巻、あれ全部暗記していたってほんまかいな、呆れてしまう。ややこしい神さまの名前や天皇の名前、ちっとも覚えられなくて困っているのに。

奈良県大和郡山市稗田町の売太神社めたに、「かたりべの碑」が立つ。

稗田氏は天鈿女命を祖とする猿女君氏の一族で、この稗田町辺りを本拠とした。

売太神社は、天鈿女命と稗田阿礼命を祭神とする。阿礼も神さまなのである。

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『古事記』

古事記上巻 并せて序

臣安万侶言す。夫れ、混元既に凝りて、気象未だ效れず。名も無く為も無し。誰れか其の形を知らむ。然れども、乾坤初めて分れて、参神造化の首と作り、陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為りき。所以に、幽顕に出入して、日月目を洗ふに彰れ、海水に浮沈して、神祇身を滌ぐに呈れき。故、太素は杳冥なれども、本教に因りて土を孕み島を産みし時を識り、元始は綿なれども、先聖に頼りて神を生み人を立てし世を察りぬ。寔に知る、鏡を懸け珠を吐きて、百王相続し、剱を喫ひ蛇を切りて、万神蕃息せしことを。安河に議りて天下を平け、小浜に論ひて国土を清めき。是を以ちて、番仁岐命、初めて高千嶺に降り、神倭天皇、秋津島に経歴したまひき。化熊川を出でて、天剱を高倉に獲、生尾徑を遮りて、大烏吉野に導きき。を列ねて賊を攘ひ、歌を聞きて仇を伏はしめき。即ち、夢に覚りて神祇を敬ひたまひき。所以に賢后と称す。烟を望みて黎元を撫でたまひき。今に聖帝と伝ふ。境を定め邦を開きて、近淡海に制め、姓を正し氏を撰びて、遠飛鳥に勒めたまひき。歩驟各異に、文質同じからずと雖も、古を稽へて風猷を既に頽れたるに縄し、今に照らして典教を絶えむとするに補はずといふこと莫し。
飛鳥の清原の大宮に大八州御しめしし天皇の御世に曁りて、潜龍元を体し、雷期に応じき。夢の歌を開きて業を纂がむことを相せ、夜の水に投りて基を承けむことを知りたまひき。然れども、天の時未だ臻らずして、南山に蝉蛻し、人事共給はりて、東国に虎歩したまひき。皇輿忽ち駕して、山川をえ渡り、六師雷のごとく震ひ、三軍電のごとく逝きき。杖矛威を挙げて、猛士烟のごとく起こり、絳旗兵を耀かして、凶徒瓦のごとく解けき。未だ浹辰を移さずして、気自ら清まりき。乃ち、牛を放ち馬を息へ、牛を放ち馬を息へ、ト悌して華夏に悌して華夏に帰り、旌を巻き戈をめ、詠して都邑に停まりたまひき。歳大梁に次り、月夾鐘に踵り、清原の大宮にして、昇りて天位に即きたまひき。道は軒后に軼ぎ、徳は周王に跨えたまひき。乾符を握りて六合をハべ、天統を得て八荒を包ねたまひき。二気の正しきに乗り、五行の序を斉へ、神理を設けて俗を獎め、英風を敷きて国を弘めたまひき。重加、智海は浩汗として、潭く上古を探り、心鏡は煌として、明らかに先代を覩たまひき。
是に天皇詔りたまひしく、「朕聞く、諸家のる帝紀及び本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふと。今の時に当りて、其の失を改めずば、未だ幾年をも経ずして其の旨滅びなむとす。斯れ乃ち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。故惟れ、帝紀を撰録し、舊辞を討覈して、偽りを削り実を定めて、後葉に流へむと欲ふ。」とのりたまひき。時に舍人有りき。姓は稗田、名は阿礼、年は是れ廿八。人と為り聡明にして、目に度れば口に誦み、耳に拂るれば心に勒しき。即ち、阿礼に勅語して帝皇日継及び先代舊辞を誦み習はしめたまひき。然れども、運移世異りて、未だ其の事を行ひたまはざりき。
伏して惟ふに、皇帝陛下、一を得て光宅し、三に通じて亭育したまふ。紫宸に御して徳は馬の蹄の極まる所に被び、玄扈に坐して化は船の頭の逮ぶ所を照らしたまふ。日浮かびて暉を重ね、雲散りて烟に非ず。柯を連ね穗を并す瑞、史書すことを絶たず、烽を列ね訳を重ぬる貢、府空しき月無し。名は文命よりも高く、徳は天乙にも冠りたまへりと謂ひつ可し。
焉に、舊辞の誤り忤へるを惜しみ、先紀の謬り錯れるを正さむとして、和銅四年九月十八日を以ちて、臣安万侶に詔りして、稗田阿礼の誦む所の勅語の舊辞を撰録して獻上せしむといへれば、謹みて詔旨の随に、子細に採りひぬ。然れども、上古の時、言意並びに朴にして、文を敷き句を構ふること、字に於きて即ち難し。已に訓に因りて述べたるは、詞心に逮ばず、全く音を以ちて連ねたるは、事の趣更に長し。是を以ちて今、或は一句の中に、音訓を交へ用ゐ、或は一事の内に、全く訓を以ちて録しぬ。即ち、辞理の見えきは、注を以ちて明らかにし、意況の解り易きは、更に注せず。亦姓に於きて日下を玖沙訶と謂ひ、名に於きて帶の字を多羅斯と謂ふ、此くの如き類は、本の随に改めず。大抵記す所は、天地開闢より始めて、小治田の御世に訖る。故、天御中主神以下、日子波限建鵜草葺不合命以前を上巻と為し、神倭伊波礼毘古天皇以下、品陀御世以前を中巻と為し、大雀皇帝以下、小治田大宮以前を下巻と為し、并せて三巻を録して、謹みて獻上る。臣安万侶、誠惶誠恐、頓首頓首。

和銅五年正月廿八日      正五位上勳五等太朝臣安万侶

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