伊邪那岐命 伊邪那美命

伊邪那岐命、黄泉国から逃げ還る

島根県八束郡東出雲町揖屋町

黄泉比良坂

黄泉比良坂よもつひらさか

島根県東出雲町揖屋町の揖夜神社近く、小高い山間に黄泉比良坂はある。

『古事記』に「其の謂はゆる黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂と謂ふ。」とある。それがこの地なのである。1300年も前に記された『古事記』に、既にここが伝説地として語られていた。驚く。ここが黄泉の国への入口なのである。

ここが黄泉の国との境界である。

・・・

伊邪那岐命と伊邪那美命ふたりは結婚をして、この日本の国の島々を生んでくれた。たくさんの神も生んでくれた。

伊邪那美命は最後に火の神を生んだ。それがために大火傷をしてしまい、ついに帰らぬ人となってしまった。伊邪那岐命は悔しがった。火の神など生まさなければよかった、それもあとのまつり。

そやけど、まだまだふたりで生まなければならない神がいっぱいいる。今死んでしもうたらあかん。そうや、黄泉の国へ行って、連れ戻そう。伊邪那岐命は黄泉の国で伊邪那美命にあった。「戻ってくれ、わしひとりでは生きていけへん、たのむわ」

伊邪那美命は云う。「私はすでに黄泉戸喫よもつへぐひを食べてしまった」、と。

黄泉の国で煮焚きした食べ物を食べると、もうあの世(黄泉国)の者になってしまって、再びこの世には戻れないと信じられていた。現在の葬儀の風習に、出棺の時、亡くなった人の飯碗を地に投げて割ってしまう。もうこの世の飯は食べられない、あの世で黄泉戸喫をめしあがれということだろう。また、同じ釜の飯を食べたという仲間意識にも通じることである。

「そんなん云わんと、帰ってくれ」という伊邪那岐命に、伊邪那美命は「ちょっと待ってて、黄泉神に相談してくるから・・・」、「絶対明かりをつけて私を見ないで、約束よ」

いくら待っても戻ってこない。「どうなってるんや、何時間も待たされて」、男の苛立ちはあかんなあ。真っ暗で何も見えんから、頭の櫛を抜いて火をつけてしまった。これで一巻の終わりや。目の前には、うじ虫がうようよする醜い伊邪那美命の姿があった。

「み・た・な!」伊邪那美命は怒った。伊邪那岐命はえらいこっちゃと飛んで逃げた。

黄泉の醜女が追っかけてきた。伊邪那岐命は頭の鬘を投げた。鬘はぶどうに変身、醜女はそのぶどうを食べた。その間に逃げた、逃げた。食べ終わった醜女はまた追っかけてきた。今度は頭の櫛を投げた。櫛は筍たけのこに変身、醜女はまた食べた。よほど腹が空いていたものか、それとも食にいやしい女や。

黄泉の国の軍隊が大勢でやってきた。剣を抜いて伊邪那岐命も応戦しながら逃げに逃げた。ようやく境界である黄泉比良坂まできて、そこの木になっている桃の実を3個投げつけた。軍隊は逃げ帰った。桃には邪気を祓うという力があるのだ。だから桃太郎も強い。余談。

最後に伊邪那美命本人までが追っかけてきた。伊邪那岐命は黄泉の国の入口を大きな石で塞いだ。向こうで伊邪那美命が叫んだ。「く・や・し・い!私に恥をかかせて」、「仕返しするわ。私はこの世の人を毎日1000人殺すからね」。女は恐い。

伊邪那岐命は答えた。「私はこの世で毎日1500人が生まれるようにするから」。以来、この世では生まれること死ぬことが毎日繰り返されるようになったそうな。

・・・・・

ところで、その黄泉の国の入口を塞いだ大石、道反之大神ちがへしのおほかみと名付けられたが、

これがその道反之大神である。

恐る恐る近づいて写真を撮った。大神が私の両足を引きずり込んだらどうしようと足が震えた。

今日は、ぶどうも筍も桃も持って来てないがな・・・・・。

・・・・・・・

猪目洞窟

出雲市猪目町

島根半島西北の出雲市猪目町の海岸に、もうひとつ黄泉への入口がある。猪目洞窟である。

古くからこの洞窟は、『記紀』や『風土記』にいう「黄泉への穴」と云われてきた。

昭和23年、漁船の船置場として利用するため入口の堆積土を取り除いた時に発見されたものだ。弥生時代から古墳時代後期までの埋葬と生活の遺跡であり、幅30b、奥行30bの洞窟には、古代の船の廃材を棺の代わりに覆った木棺墓や稲籾入りの須恵器を副葬したものが発見された。また、生活の遺跡として、各種木製品、骨角器などの道具や、食料の残滓と思われる貝類、獣骨、鳥類、魚骨、木の実などや、多量の灰などが見つかっている。

・・・

なんとなく薄気味悪い洞窟である。

遠い昔、ここが住居として利用されたり、また墓所として利用されたという。

真っ暗な洞穴はやっぱり黄泉への入口、向こうの奥から伊邪那美命が「もう一度、うちのだんな伊邪那岐命をここに呼んでよ!」と云っているかもしれない。

・・・・・・・

『古事記』

黄泉国
是に其の妹伊邪那美命を相見むと欲ひて、黄泉国に追ひ往きき。爾に殿の縢戸より出で向かへし時、伊邪那岐命、語らひ詔りたまひしく、「愛しき我が那邇妹の命、吾と汝と作れる国、未だ作り竟へず。故、還るべし。」とのりたまひき。爾に伊邪那美命答へ白ししく、「悔しきかも、速く来ずて。吾は黄泉戸喫為つ。然れども愛しき我が那勢の命、入り来坐せる事恐し。故、還らむと欲ふを、且く黄泉神と相論はむ。我をな視たまひそ。」とまをしき。如此白して其の殿の内に還り入りし間、甚久しくて待ち難たまひき。故、左の御美豆良に刺せる湯津津間櫛の男柱一箇取り闕きて、一つ火燭して入り見たまひし時、宇士多加礼許呂呂岐弖、頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、陰には拆雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足には伏雷居り、并せて八はしらの雷神成り居りき。
是に伊邪那岐命、見畏みて逃げ還る時、其の妹伊邪那美命、「吾に辱見せつ。」と言ひて、即ち豫母都志許売を遣はして追はしめき。爾に伊邪那岐命、黒御縵を取りて投げ棄つれば、乃ち蒲子生りき。是を?ひ食む間に、逃げ行くを、猶追ひしかば、亦其の右の御美豆良に刺せる湯津津間櫛を引き闕きて投げ棄つれば、乃ち笋生りき。是を拔き食む間に、逃げ行きき。且後には、其の八はしらの雷神に、千五百の黄泉軍を副へて追はしめき。爾に御佩せる十拳剱を拔きて、後手に布伎都都逃げ来るを、猶追ひて、黄泉比良坂の坂本に到りし時、其の坂本に在る桃子三箇を取りて、待ち撃てば、悉に迯げ返りき。爾に伊邪那岐命、其の桃子に告りたまひしく、「汝、吾を助けしが如く、葦原中国に有らゆる宇都志伎青人草の、苦しき瀬に落ちて患ひ惚む時、助くべし。」と告りて、名を賜ひて意富加牟豆美命と号ひき。
最後に其の妹伊邪那美命、身自ら追ひ来りき。爾に千引の石を其の黄泉比良坂に引き塞へて、其の石を中に置きて、各対ひ立ちて、事戸を度す時、伊邪那美命言ひしく、「愛しき我が那勢の命、如此為ば、汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ。」といひき。爾に伊邪那岐命詔りたまひしく、「愛しき我が那迩妹の命、汝然為ば、吾一日に千五百の産屋立てむ。」とのりたまひき。是を以ちて、一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まるるなり。故、其の伊邪那美命を号けて黄泉津大神と謂ふ。亦云はく、其の追斯伎斯を以ちて、道敷大神と号くといふ。亦其の黄泉の坂に塞りし石は、道反之大神と号け、亦塞り坐す黄泉戸大神とも謂ふ。故、其の謂はゆる黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂と謂ふ。

・・・・・・・

『日本書紀』にも、伊奘諾尊が黄泉を訪ねる話がある。

第五段の一書(第六)に、伊奘諾尊が伊奘冉尊を訪ねると、伊奘冉尊は「もう黄泉の食事を食べてしもうたし、もう眠いし寝るわ。私を見んといてな」という。それで終りや。

『古事記』の方がひとまず愛がある。黄泉の神に相談してできれば帰るからという。もう一度夫婦いっしょになろうとする。ところが、『日本書紀』は「なんでこんなに来るの遅かったんや。もう眠るわ」で終り。夫婦愛がうすい。

それと、『古事記』では伊邪那岐命は、ぶどう、筍、桃で助かることができたけど、『日本書紀』の伊奘諾尊は、ぶどうと筍はいっしょだけど、桃は登場しない。その代わりに、大きな木に向って放尿したらそれが大きな川になって、敵が難儀している間に泉津平坂にたどり着いたという話になっている。放尿より桃に方がきれいな話やな。

・・・・・・・

『日本書紀』

第五段 一書(第六)

然して後に、伊奘諾尊、伊奘冉尊を追ひて、黄泉に入りて、及きて共に語る。時に伊奘冉尊の曰はく、「吾夫君の尊、何ぞ晩く来しつる。吾已に?泉之竃せり。然れども、吾当に寝息まむ。請ふ、な視ましそ」とのたまふ。伊奘諾尊、聴きたまはずして、陰に湯津爪櫛を取りて、其の雄柱を牽き折きて、秉炬として、見しかば、膿沸き蟲流る。今、世人、夜一片之火忌む、又夜擲櫛を忌む、此其の縁なり。時に伊奘諾尊、大きに驚きて曰はく、「吾、意はず、不須也凶目き汚穢国に到にけり」とのたまひて、乃ち急に走げ廻帰りたまふ。時に、伊奘冉尊、恨みて曰はく、「何ぞ要りし言を用ゐたまはずして、吾に恥辱みせます」とのたまひて、乃ち泉津醜女八人、一に云はく、泉津日狭女といふ、を遣して追ひて留めまつる。故、伊奘諾尊、剣を抜きて背に揮きつつ逃ぐ。因りて、黒鬘を投げたまふ。此即ち、蒲陶に化成る。醜女、見て採りてむ。み了りて則ち更追ふ。伊奘諾尊、又湯津爪櫛を投げたまふ。此即ち筍に化成る。醜女亦以て抜きむ。み了りて則ち更追ふ。後に則ち伊奘冉尊、亦自ら来追でます。是の時に、伊奘諾尊、已に泉津平坂に到ります。一に云はく、伊奘諾尊、乃ち大樹に向ひて放尿まる。此即ち巨川と化成る。泉津日狭女、其の水を渡らむとする間に、伊奘諾尊、已に泉津平坂に至しましぬといふ。故便ち千人所引の磐石を以て、其の坂路に塞ひて、伊奘冉尊と相向きて立ちて、遂に絶妻之誓建す。時に、伊奘冉尊の曰はく、「愛しき吾が夫君し、如此言はば、吾当に汝が治す国民、日に千頭縊り殺さむ」とのたまふ。伊奘諾尊、乃ち報へて曰はく、「愛しき吾が妹し、如此言はば、吾は当に日に千五百頭産ましめむ」とのたまふ。因りて曰はく、「此よりな過ぎそ」とのたまひて、即ち其の杖を投げたまふ。是を岐神と謂す。又其の帶を投げたまふ。是を長道磐神と謂す。又其の衣を投げたまふ。是を煩神と謂す。又其の褌を投げたまふ。是を開囓神と謂す。又其の履を投げたまふ。是を道敷神と謂す。其の泉津平坂にして、或いは所謂ふ、泉津平坂といふは、復別に處所有らじ、但死るに臨みて気絶ゆる際、是を謂ふか。所塞がる磐石といふは、是泉門に塞ります大神を謂ふ。亦の名は道返大神といふ。

←次へ              次へ→

記紀の旅上巻一覧表に戻る

記紀の旅

『古事記』 『日本書紀』 『風土記』

万葉集を携えて

inserted by FC2 system