大長谷若建命(大泊瀬幼武天皇) 雄略天皇

御所市

一言主大神

雄略天皇、あるとき葛城山に猪狩に出かけた。

大きな猪が出たので矢を射ったら、猪は逆上して天皇に襲いかかった。びっくりして、木に登って逃げた。

猪をなめたらあかん。逃げて正解。

日本武尊は、大きな白い猪に化身した伊吹山の神に敗れた。

神功皇后と御子を殺そうとした香坂王は、赤い大猪に食い殺された。

・・・

またあるとき、同じ葛城山に狩に出かけた。

みんな狩用の赤い紐のついた青摺りの衣服というお揃いの服装で。

なかなかおしゃれなことをするね。

ところが、こっちとまったく同じ服装で、人数も同じというグループで出会った。

天皇、「やつら何者。我々のまねをして」と怒って、矢刺(矢を構えること)をした。家来もみんな矢刺して構えた。

そしたら向こうも同じように矢を構えて対峙、「名を名乗れ」というと、

吾は悪事も一言、善事も一言、言ひ離つ神、葛城の一言主大神ぞ」

天皇は、一言主大神と聞いて、恐れ入って弓矢をはずし、揃いの衣服も脱いで、

「大神とは存ぜず、失礼をいたしました」と、弓矢、衣装を献上した。

そして、大神はわざわざ天皇を麓まで送ってくれた、長谷の山口まで。(『紀』は来目水まで)

・・・・・

葛城山系の金剛山(1125b)の山頂に、葛木神社がある。

参道脇に、矢刺神社がある。

ここで、雄略天皇が矢刺して構えたところという。御猪狩遺跡と記されている。

・・・

御所市森脇に、一言主神社がある。

祭神は、もちろん一言主大神、地元では「いちごんさん」と親しみをこめて呼ばれている。

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稲荷山鉄剣

1968年、埼玉県行田市の稲荷山古墳で、115字の金象嵌の銘文が刻まれた鉄剣が発見された。


鉄剣

鉄剣上部

鉄剣下部(重複あり)

辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比?其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比(表)

其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也(裏)

と、刻されているらしい。

「辛亥年七月に記す」とあって、乎獲居の臣が、先祖累々の名を挙げて八代目になるという。

杖刀人(軍事を司る)首長として、斯鬼宮におられる獲加支鹵大王の天下を左治する、とある。

辛亥年とは、471年が通説で、獲加支鹵大王(わかたける)とは、大泊瀬幼武(おおはつせわかたける)、雄略天皇のことなのである。

雄略天皇の軍事統制が、この地埼玉県にまで及んでいたことを示す。すごい。

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それなら、明治時代に熊本県玉名郡の船岡山古墳で見つかった剣にも、よく似た文字があるとなり、

はっきりとは読めないらしいが、

治天下獲加多支鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸上好刊刀

服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太和書者張安也

と、刻されているみたい。

ここにも「獲加多支鹵大王」とあって、无利弖という名の典曹に奉事する人とあり、文書を司どる役所に仕えていたという。

雄略天皇の天下統制が、熊本県にも及んでいたことになる。すごい、すごい。

・・・

また、この時代になると、海外にも積極的に外交活動をしたようで、

雄略天皇のことも、中国・『宋書倭国伝』に登場する。

上表文といって、宋の皇帝である順帝に、手紙を書いている。

本人が書いたのか、渡来系の人が代筆したのかは別にして、立派な漢文で、意思を伝えることができたのである。

「武」というのが、幼武大王の武であり、倭の五王(讃・珍・済・興・武)の最後の王が雄略天皇である。

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興死して、弟武立ち、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称す。

順帝の昇明二年(478)、遣使が上表して曰く「封国は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰躬ら甲冑を?き、山川を跋渉し、寧處に遑あらず。東は毛人を征すること五十国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国、王道融泰にして、土を廓き畿を遐にす。累葉朝宗して歳に愆らず。臣、下愚と雖も、忝なくも先緒を胤ぎ、統ぶる所を駆率し、天極に帰崇し、道百済を遥て、船舫を装治す。而るに句驪無道にして、図りて見呑を欲し、辺隸を掠抄し、虔劉して已まず。毎に稽滞を致し、以て良風を失い、路に進むと雖も、或は通じ或は不らず。臣が亡考済、実に寇讐の天路を壅塞するを忿り、控弦百万、義声に感激し、方に大挙せんと欲せしも、奄かに父兄を喪い、垂成の功をして一簣を獲ざらしむ。居しく諒闇に在り、兵甲を動かさず。これを以て、偃息して未だ捷たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。義士虎賁文武功を效し、白刃前に交わるともまた顧みざる所なり。もし帝徳の覆戴を以て、この疆敵を摧き、克く方難を靖んぜば、前功を替えることなけん。密かに自ら開府儀同三司を仮し、その余は咸な仮授して、以て忠節を勧む」と。詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に除す。

・・・

雄略天皇、自ら甲冑を着て、あちこち征服に暇がないという。東は50国、西は66国を征したという。

さらに、北に海を越えて、95国を征したという。95国って朝鮮半島のことかな。合わせて215国、かなりオーバーな表現やな。

宋の皇帝のもとに、貢物を持って挨拶に行きたいが、高句麗がじゃまをして通してくれない。

中国のお力を借りて、この高句麗をたたきつぶすことができたら、皇帝のおっしゃる通りに忠節を誓うという。

そのためには、

使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王

という七国の軍事を掌握する称号が欲しいという。

皇帝からの返事は、

使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王

とあり、百済は外されていて、六国の称号をいただいた。

百済は先に朝貢していて、百済にも称号も与えたから外したのだ。宋の称号認定事務局もけっこう細かく管理ができている。

中華思想を受け入れ、冊封体制ではあるが、雄略天皇はなかなかがんばった天皇だった。

・・・・・

雄略天皇二十二年、天皇は亡くなる。

『日本書紀』に、清寧天皇元年冬十月に、大泊瀬天皇を丹比高鷲原陵に葬りまつる、とある。

・・・

大阪府羽曳野市

大阪府羽曳野市島泉8丁目に、雄略天皇陵(丹比高鷲原陵)がある。

  

この陵墓、顕宗天皇の代になって、破壊されることになった。

顕宗天皇(弟)と仁賢天皇(兄)の父は市辺押磐皇子で、雄略天皇と従兄弟になる。

その雄略天皇が皇位に就くために、市辺押磐皇子を近江国に狩に誘い、そこで射殺してしまった。

皇位を継ぐために、兄弟、従兄弟が殺し合うことはいくつも例があるけれど、

殺された側が、後の天皇になったものだから、憎しみ、恨みは激しい。

弟の顕宗天皇が先に天皇になったのだが、兄弟ふたりは父亡き後、逃亡生活をして苦汁をなめたこともあり、

父の仇、あの陵墓を壊してしまおうと、天皇は兄に相談をした。

兄は、「分った。天皇の命令だし、しかもこれはふたりの個人的な恨み、私がやろう」と、陵墓に出かけた。

そして早々に、「憎き雄略の墓、壊してまいりました」と帰ってきた。

天皇は、「えらい早いなあ。兄ちゃん、ほんまに壊してきたのか」と問う。

兄は答えた。

父の恨みを果たすということは、ふたりにとってもっともなことだけど、

雄略天皇といえば、天下を治めた天皇であり、またその息子清寧天皇のおかげでふたりは命を救われ、

しかも天皇位まで譲られることになった。

ここで、陵墓すべてを壊してしまったら、人民の信を失い、末代まで私たちが笑われることになる。

だから、憎しみは大きいけれど、陵墓の隅をほんの少しだけ壊して怨みを晴らしてきたと報告した。

天皇は「その通りやな」と、頷いた。

やさしい兄弟天皇である。

・・・・・・・

『古事記』 一言主大神

又一時、天皇葛城の山の上に登り幸でましき。爾に大猪出でき。即ち天皇鳴鏑を以ちて其の猪を射たまひし時、其の猪怒りて、宇多岐依り来つ。故、天皇其の宇多岐を畏みて、榛の上に登り坐しき。爾に歌曰ひたまひしく、
  やすみしし 我が大君の 遊ばしし 猪の病猪の 唸き畏み 我が逃げ登りし 在丘の 榛の木の枝
とうたひたまひき。
一時、天皇葛城山に登り幸でましし時、百官の人等、悉に紅き紐著けし青摺の衣服を給はりき。彼の時其の向へる山の尾より、山の上に登る人有りき。既に天皇の鹵簿に等しく、亦其の装束の状、及人衆、相似て傾らざりき。爾に天皇望けまして、問はしめて曰りたまひしく、「?の倭国に、吾を除きて亦王は無きを、今誰しの人ぞ如此て行く。」とのりたまへば、即ち答へて曰す状も亦天皇の命の如くなりき。是に天皇大く忿りて矢刺したまひ、百官の人等悉に矢刺しき。爾に其の人等も亦皆矢刺しき。故、天皇亦問ひて曰りたまひしく、「然らば其の名を告れ。爾に各名を告りて矢彈たむ。」とのりたまひき。是に答へて曰しけらく、「吾先に問はえき。故、吾先に名告りを為む。吾は悪事も一言、善事も一言、言ひ離つ神、葛城の一言主大神ぞ。」とまをしき。天皇是に惶畏みて白したまひしく、「恐し、我が大神、宇都志意美有らむとは、覚らざりき。」と白して、大御刀及弓矢を始めて、百官の人等の服せる衣服を脱がしめて、拜みて獻りたまひき。爾に其の一言主大神、手打ちて其の捧げ物を受けたまひき。故、天皇の還り幸でます時、其の大神、満山の末より長谷の山口に送り奉りき。故、是の一言主大神は、彼の時に顕れたまひしなり。

・・・

『日本書紀』 一言主神

四年の春二月に、天皇、葛城山に射獵したまふ。忽に長き人を見る。来りて丹谷に望めり。面貌容儀、天皇に相以れり。天皇、是神なりと知しめせれども、猶故に問ひて曰はく、「何處の公ぞ」とのたまふ。長き人、対へて曰はく、「現人之神ぞ。先づ王の諱を称れ。然して後に?はむ」とのたまふ。天皇、答へて曰はく、「朕は是、幼武尊なり」とのたまふ。長き人、次に称りて曰はく、「僕は是、一事主神なり」とのたまふ。遂に与に遊田を盤びて、一の鹿を駈逐ひて箭発つことを相辞りて、轡を竝べて馳す。言詞恭しく恪みて、仙に逢ふ若きこと有します。是に、日晩れて田罷みぬ。神、天皇を待送りたてまつりたまひて、来目水までに至る。是の時に、百姓、咸に言さく、「徳しく有します天皇なり」とまうす。

・・・

『古事記』 顕宗記

天皇、深く其の父王を殺したまひし大長谷天皇を怨みたまひて、其の霊に報いむと欲ほしき。故、其の大長谷天皇の御陵を毀たむと欲ほして、人を遣はしたまふ時、其の伊呂兄意祁命、奏言したまひしく、「是の御陵を破り壊つは、他人を遣はすべからず。専ら僕自ら行きて、天皇の御心の如く、破り壊ちて参出む。」とまをしたまひき。爾に天皇詔りたまひしく、「然らば命の随に幸行でますべし。」とのりたまひき。是を以ちて意祁命、自ら下り幸でまして、少し其の御陵の傍を掘りて、還り上りて復奏言したまひしく、「既に掘り壊ちぬ。」とまをしたまひき。爾に天皇、其の早く還り上らししことを異しみて詔りたまひしく、「如何か破り壊ちたまひぬる。」とのりたまへば、答へて白したまひしく、「少し其の陵の傍の土を掘りつ。」とまをしたまひき。天皇詔りたまひしく、「父王の仇を報いむと欲へば、必ず悉に其の陵を破り壊たむに、何しかも少し掘りたまひつる。」とのりたまへば、答へて曰したまひしく、「然か為し所以は、父王の怨みを其の霊に報いむと欲ほすは、是れ誠に理なり。然れども其の大長谷天皇は、父の怨みにはあれども、還りては我が従父にまし、亦天の下治らしめしし天皇なり。是に今単に父の仇といふ志を取りて、悉に天の下治らしめしし天皇の陵を破りなば、後の人必ず誹謗らむ。唯父王の仇は報いざるべからず。故、少し其の陵の辺を掘りつ。既に是く恥みせつれば、後の世に示すに足らむ。」とまをしたまひき。如此奏したまへば、天皇答へて詔りたまひしく、「是も亦大く理なり。命の如くにて可し。」とのりたまひき。

・・・

『日本書紀』 顕宗紀

二年、秋八月の己未の朔に、天皇、皇太子億計に謂りて曰はく、「吾が父先王、罪無。而るを大泊瀬天皇、射殺し、骨を郊野に棄て、今に至るまでに未だ獲ず。憤り歎くこと懐に盈てり。臥しつつ泣き、行く号びて、讎恥を雪めむと志ふ。吾聞く、父の讎は、与共に天を戴かず。兄弟の讎は、兵を反さず。交遊の讎は、国を同じくせずと。夫れ匹夫の子は、父母の讎に居て、苫に寝、干を枕にして仕へず。国を与共にせず。諸市朝に遇へば、兵を反さずして便ち闘ふ。況むや吾立ちて天子たること、今に二年。願はくは、其の陵を壊ちて、骨を摧きて投げ散さむ。今、此を以て報いなば、亦孝にあらざらむや」とのたまふ。皇太子億計、歔欷きて答ふること能はず。乃ち諌めて曰はく、「不可。大泊瀬天皇、万機を正し統ねて、天下に臨み照したまふ。華夷、欣び仰ぎしは、天皇の身なり。吾が父の先王は、是天皇の子たりと雖も、??に遭遇ひて、天位に登りたまはず。此を以て観れば、尊卑惟別なり。而るを忍びて陵墓を壊たば、誰を人主としてか天の霊に奉へまつらむ。其の毀つべからざる、一なり。又天皇と億計と、曽に白髮天皇の厚き寵・殊なる恩に遇ふことを蒙らざりせば、豈宝位に臨まむや。大泊瀬天皇は、白髮天皇の父なり。億計、諸の老賢に聞きき。老賢の曰ひしく、『言として?いざるは無く、徳として報へざるは無し。恩有りて報へざるは、俗を敗ること深し』といひき。陛下、国を饗しめして、徳行、広く天下に聞ゆ。而るを陵を毀ち、飜りて華裔に見しめば、億計、恐るらくは、其れ以て国に莅み民を子ふべからざらむことを。其の毀つべからざる、二なり」とのたまふ。天皇の曰はく、「善きかな」とのたまひ、役を罷めしめたまふ。

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