「幻住庵記」  芭蕉艸

石山の奥、(いは)()のうしろに山有、(こく)()(やま)(いふ)そのかみ国分寺(こくぶんじ)の名をふなるべし。(ふもと)に細き流を渡りて、(すゐ)()に登る事三曲(さんきよく)二百歩にして、八幡宮たせたまふ。神体は弥陀の尊像とかや。唯一の家には(はなはだ)(いむ)なる事を、両部(りやうぶ)光を(やわら)利益(りやく)(ちり)を同じうしたまふも又貴し。()(ごろ)は人の(まうで)ざりければ、いとさび物しづかなる(かたはら)に、(すみ)(すて)し草の戸有。よもぎ・()(ざさ)軒をかこみ、()ねもり壁(おち)()()ふしどを得たり。幻住菴と云。あるじの僧何がしは、勇士菅沼氏曲水子の伯父になん侍りしを、今は()(とせ)(ばかり)むかしに(なり)て、(まさ)に幻住老人の名をのみ

予又市中をさる事()(とせ)計にして、()()()ちかき身は、蓑虫のみのを失ひ、蝸牛(かたつぶり)家を離て、奥羽象潟(きさかた)の暑き日に(おもて)をこがし、高すなごあゆみくるしき北海の荒礒にきびすを破りて、今歳(ことし)湖水の波に(ただよふ)(にほ)(うき)()の流とゞまるべき(あし)一本(ひともと)の陰たのもしく、(のき)()(ふき)あらため、垣ね(ゆひ)(そへ)などして、卯月の初いとかりそめに(いり)し山の、やがて(いで)じとさへおもひそみ

さすがに春の名残(なごり)も遠からず、つゝじ咲残り、山藤松に(かかり)て、時鳥(ほととぎす)しばしば(すぐ)る程、宿かし鳥の便(たより)()有を、木つゝきのつゝくともいとはじなど、そゞろに興じて、(たましひ)()()東南にはしり、身は瀟湘(せうしやう)洞庭(とうてい)に立つ。山は未申(ひつじさる)にそばだち、人家よきほどに(へだた)り、南薫(なんくん)峯よりおろし、北風(ほくふう)海を(ひた)して凉し。日枝(ひえ)の山、比良(ひら)の高根より、辛崎の松は霞こめて、城有、橋有、釣たるゝ舟有。笠とりにかよふ()(こり)の声、麓の小田(をだ)早苗とる歌、蛍飛かふ夕闇の空に、水鶏(くひな)(たたく)音、美景(もの)としてたらずと云事なし。中にも三上山(みかみやま)は士峯の俤にかよひて、武蔵野の古き(すみか)もおもひいでられ、田上山(たなかみやま)に古人をかぞふ。さゝほが(たけ)・千丈が峯・(はかま)(こし)といふ山有。黒津の里はいとくろう茂りて、網代(あじろ)()ルにぞとよみけん萬葉集の姿なりけり。(なほ)眺望くまなからむと、(うしろ)の峯に(はひ)のぼり、松の棚(つくり)、藁の円座を(しき)て、猿の腰掛と名付(なづく)(かの)海棠(かいだう)に巣をいとなび、主薄峯に(いほり)結べる(わう)(をう)除?(じよせん)()にはあらず。唯睡辟(すゐへき)山民(さんみん)と成て、(さん)(がん)に足をなげ出し、空山(くうざん)に虱を(ひねつ)て座ス。たまたま心まめなる時は、谷の清水を汲て自ら(かし)ぐ。とくとく(しづく)(わび)て一炉の備へいとかろし。はた昔住けん人の、殊に心高く住なし侍りて、たくみ(おけ)る物ずきもなし。()(ぶつ)一間(ひとま)(へだて)て、夜の物()さむべき處などいさゝかしつらへ

さるを、筑紫高良山(こうらさん)の僧正は、加茂の甲斐(かひ)何がしが厳子(げんし)にて(この)たび(らく)にのぼりいまそかりけるを、ある人をして額を(こふ)。いとやすやすと筆を(そめ)て、幻住菴の三字を送らる。(やが)て草菴の記念(かたみ)となしぬ。すべて山居といひ旅寝と云、さる(うつわもの)たくはふべくもなし。木曽の(ひのき)(がさ)(こし)(すげ)(みの)(ばかり)、枕の上の柱に(かけ)たり。昼は稀々とぶらふ人々に心を動し、あるは宮守(みやもり)の翁、里の()のこ(ども)入来りて、いのしゝの稲くひあらし、兎の豆畑にかよふなど、我聞しら(のう)(だん)、日既に山の()にかゝれば、夜座(しづか)に月を待ては影を(ともな)ひ、(ともしび)(とり)ては(もう)(りやう)に是非をこら

かくいへばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡をかくさむとにはあらず。やゝ病身人に(うみ)て、世をいとひし人に似たり。(つらつら)年月(としつき)(うつり)こし(つたな)き身の(とが)をおもふに、ある時は()(くわん)懸命地をうらやみ、一たびは仏籬(ぶるり)祖室(そしつ)(とぼそ)に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥(くわてう)(じやう)を労して、(しばら)く生涯のはかり事とさへなれば、(つい)に無能無才にして(この)一筋につながる。楽天(らくてん)五臟(ごそう)(しん)をやぶり、老杜(らうと)(やせ)たり。賢愚(けんぐ)文質(ぶんしつ)のひとしからざるも、いづれか(まぼろし)(すみか)ならずやと、おもひ(すて)てふし

(まづ) た の む (しひ) の 木 も (あり)() (だち)

日本古典文学大系 『芭蕉文集』 岩波書店

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