『平家物語』 巻第十一

重衡被斬

 

 本三位中将重衡卿者、狩野介宗茂にあづけられて、去年より伊豆国におはしけるを、南都大衆頻に申ければ、「さらばわたせ」とて、源三位入道頼政の孫、伊豆蔵人大夫頼兼に仰て、遂に奈良へぞつかはしける。都へは入られずして、大津より山しなどをりに、醍醐路をへてゆけば、日野はちかかりけり。此重衡卿の北方と申は、鳥飼の中納言惟実のむすめ、五条大納言邦綱卿の養子、先帝の御めのと大納言佐殿とぞ申ける。三位中将一谷でいけどりにせられ給ひし後も、先帝につきまいらせておはせしが、壇の浦にて海にいらせ給ひしかば、ものゝふのあらけなきにとらはれて、旧里に帰り、姉の大夫三位に同宿して、日野といふ所におはしけり。中将の露の命、草葉の末にかゝてきえやらぬときゝ給へば、夢ならずして今一度見もし見えもする事もやとおもはれけれども、それもかなはねば、なくより外のなぐさめなくて、あかしくらし給ひけり。三位中将守護の武士にの給ひけるは、「此程事にふれてなさけふかう芳心おはしつるこそありがたううれしけれ。同くは最後に芳恩かぶりたき事あり。我は一人の子なければ、この世におもひをく事なきに、年来あひぐしたりし女房の、日野といふところにありときく。いま一度対面して、後生の事を申をかばやとおもふなり」とて、片時のいとまをこはれけり。武士どもさすが岩木ならねば、おのおの涙をながしつゝ「なにかはくるしう候べき」とて、ゆるしたてまつる。中将なのめならず悦て、「大納言佐殿の御局はこれにわたらせ給候やらん。本三位中将殿の只今奈良へ御とをり候が、立ながら見参に入ばやと仰候」と、人をいれていはせければ、北方聞もあへず「いづらやいづら」とてはしりいでて見給へば、藍摺の直垂に折烏帽子きたる男の、やせくろみたるが、縁によりゐたるぞそなりける。北方みすのきはちかくよて、「いかに夢かやうつゝか。これへいり給へ」との給ひける御声をきゝ給ふに、いつしか先立ものは涙也。大納言佐殿目もくれ心もきえはてて、しばしは物もの給はず。三位中将御簾うちかづいて、なくなくの給ひけるは、「こぞの春、一の谷でいかにもなるべかりし身の、せめての罪のむくひにや、いきながらとらはれて大路をわたされ、京鎌倉恥をさらすだに口惜きに、はては奈良の大衆の手へわたされてきらるべしとて罷候。いかにもして今一度御すがたをみたてまつらばやとおもひつるに、いまは露ばかりもおもひをく事なし。出家して形見にかみをもたてまつらばやとおもへども、ゆるされなければ力及ばず」とて、ひたゐのかみをすこしひきわけて、口のをよぶところをくひきて、「是を形見に御らんぜよ」とてたてまつり給ふ。北方は、日来おぼつかなくおぼしけるより、いま一しほかなしみの色をぞまし給ふ。「まことに別たてまつりし後は、越前三位のうへの様に、水の底にもしづむべかりしが、まさしうこの世におはせぬ人ともきかざりしかば、もし不思議にて今一度、かはらぬすがたをみもし見えもやするとおもひてこそ、うきながら今までもながらへてありつるに、けふをかぎりにておはせんずらんかなしさよ。いままでのびつるは、「もしや」とおもふたのみもありつる物を」とて、昔いまの事どもの給ひかはすにつけても、たゞつきせぬ物は涙也。「あまりに御すがたのしほれてさぶらふに、たてまつりかへよ」とて、あはせの小袖に淨衣をいだされたりければ、三位中将是をきかへて、もとき給へる物どもをば、「形見に御らんぜよ」とてをかれけり。北方「それもさる事にてさぶらへども、はかなき筆の跡こそながき世のかたみにてさぶらへ」とて、御硯をいだされたりければ、中将なくなく一首の歌をぞかゝれける。

せきかねて涙のかゝるからごろものちのかたみにぬぎぞかへぬる

女房きゝもあへず

ぬぎかふるころももいまはなにかせんけふをかぎりのかたみとおもへば

「契あらば後世にてはかならずむまれあひたてまつらん。ひとつはちすにといのり給へ。日もたけぬ。奈へも遠う候。武士どものまつも心なし」とて、出給へば、北方袖にすがて「いかにやいかに、しばし」とてひきとゞめ給ふに、中将「心のうちをばたゞをしはかり給べし。されどもつゐにのがれはつべき身にもあらず。又こん世にてこそ見たてまつらめ」とていで給へども、まことに此世にてあひ見ん事は、是ぞかぎりとおもはれければ、今一度たちかへりたくおぼしけれども、心よはくてはかなはじと、おもひきてぞいでられける。北方御簾のきはちかくふしまろび、おめきさけび給ふ御声の、門の外まではるかにきこえければ、駒をもさらにはやめ給はず。涙にくれてゆくさきも見えねば、中々なりける見参かなと、今はくやしうぞおもはれける。大納言佐殿やがてはしりついてもおはしぬべくはおぼしけれども、それもさすがなれば、ひきかづいてぞふし給ふ。

 南都の大衆うけとて僉議す。「抑此重衡卿者大犯の悪人たるうへ、三千五刑のうちにもれ、修因感果の道理極上せり仏敵法敵の逆なれば、東大寺・興福寺の大垣をめぐらして、のこぎりにてやきるべき、堀頚にやすべき」と僉議す。老僧どもの申されけるは、「それも僧徒の法に穩便ならず。たゞ守護の武士にたうで、木津の辺にてきらすべし」とて、武士の手へぞかへしける。武士是をうけとて、木津川のはたにてきらんとするに、数千人の大衆、見る人いくらといふかずをしらず。

三位中将のとしごろめしつかはれける侍に、木工右馬允知時といふ物あり。八条女院に候けるが、最後をみたてまつらんとて、鞭をうてぞ馳たりける。すでに只今きりたてまつらんとする處にはせつゐて、千万立かこうだる人の中をかきわけかきわけ、三位中将のおはしける御そばちかうまいりたり。「知時こそたゞいま最後の御有様みまいらせ候はんとて、是までまいりてこそ候へ」となくなく申ければ、中将「まことに心ざしの程神妙也。仏ををがみたてまてきらればやとおもふはいかゞせんずる。あまりに罪ふかうおぼゆるに」との給へば、知時「やすい御事候や」とて、守護の武士に申あはせ、そのへんにおはしける仏を一躰むかへたてまて出きたり。幸に阿弥陀にてぞましましける。川原のいさごのうへに立まいらせ、やがて知時が狩衣の袖のくゝりをといて、仏の御手にかけ、中将にひかへさせ奉る。是をひかへ奉り、仏にむかひたてまて申されけるは、「つたへきく、調達が三逆をつくり、八万蔵の聖教をほろぼしたりしも、遂には天王如来の記?にあづかり、所作の罪業まことにふかしといへども、聖教に値遇せし逆縁くちずして、かへて得道の因ともなる。いま重衡が逆罪をおかす事、またく愚意の発起にあらず、只世に隨ふことはりを存斗也。命をたもつ物誰か王命を蔑如する、生をうくる物誰か父の命をそむかん。かれといひ、是といひ、辞するに所なし。理非仏陀の照覧にあり。抑罪報たちどころにむくひ、運命只今をかぎりとす。後悔千万かなしんでもあまりあり。たゞし三宝の境界は慈悲を心として、済度の良縁まちまちなり。唯縁楽意、逆即是順、此文肝に銘ず。一念弥陀仏、即滅無量罪、願くは逆縁をもて順縁とし、只今の最後の念仏によて九品託生をとぐべし」とて、高声に十念唱へつゝ、頚をのべてぞきらせられける。日来の悪行はさる事なれども、いまのありさまを見たてまつるに、数千人の大衆も守護の武士も、みな涙をぞながしける。其頚をば、般若寺大鳥居のまへに釘づけにこそかけたりけれ。治承の合戦の時、こゝにうたて伽藍をほろぼし給へるゆへなり。

 北方大納言佐殿、かうべをこそはねられたりとも、むくろをばとりよせて孝養せんとて、輿をむかへにつかはす。げにもむくろをばすてをきたりければ、とて輿にいれ、日野へかいてぞかへりける。是をまちうけ見給ひける北方の心のうち、をしはかられて哀也。昨日まではゆゝしげにおはせしかども、あつきころなれば、いつしかあらぬさまになり給ひぬ。さてもあるべきならねば、其辺に法界寺といふ處にて、さるべき僧どもあまたかたらひて孝養あり。頚をば大仏のひじり俊乗房にとかくの給へば、大衆にこうて日野へぞつかはしける。頚もむくろも煙になし、骨をば高野へをくり、墓をば日野にぞせられける。北方もさまをかへ、かの後生菩提をとぶらはれけるこそ哀なれ。
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