『平家物語』 巻第七

経正都落

 

 修理大夫経盛の子息、皇后宮の亮経正、幼少にては仁和寺の御室の御所に、童形にて候はれしかば、かゝる怱劇の中にも其御名残きとおもひ出て、侍五六騎めし具して、仁和寺殿へ馳まいり、門前にて馬よりおり、申入られけるは、「一門運尽てけふ既に帝都を罷出候。うき世におもひのこす事とては、たゞ君の御名残ばかり也。八歳の時まいりはじめ候て、十三で元服仕候までは、あひいたはる事の候はん外は、あからさまにも御前を立さる事も候はざりしに、けふより後、西海千里の浪におもむいて、又いづれの日いづれの時帰りまいるべしともおぼえぬこそ、口惜く候へ。今一度御前へまいて、君をもみまいらせたう候へ共、既に甲冑をよろい、弓箭を帶し、あらぬさまなるよそおひに罷成て候へば、憚存候」とぞ申されける。御室哀におぼしめし、「たゞ其すがたを改めずしてまいれ」とこそ仰けれ。

 経正、其日は紫地の錦の直垂に、萌黄の匂の鎧きて、長覆輪の太刀をはき、きりうの矢おひ、滋藤の弓わきにはさみ、甲をばぬぎたかひもにかけ、御前の御坪に畏る。御室やがて御出あて、御簾たかくあげさせ、「是へこれへ」とめされければ、大床へこそまいられけれ。供に具せられたる藤兵衛有教をめす。赤地の錦の袋に入たる御琵琶もてまいりたり。経正是をとりついで、御前にさしをき、申されけるは、「先年下しあづかて候し青山もたせてまいて候。あまりに名残おしう候へ共、さしもの名物を田舍の塵になさん事、口惜う候。若不思儀に運命ひらけて、又都へ立帰る事候はば、其時こそ猶下しあづかり候はめ」と泣々申されければ、御室哀におぼしめし、一首の御詠をあそばひてくだされけり。

 あかずしてわかるゝ君が名残をばのちのかたみにつゝみてぞをく

経正御硯くだされて、

 くれ竹のかけひの水はかはれどもなをすみあかぬみやの中かな

 さていとま申て出られけるに、数輩の童・出世者・坊官・侍僧に至るまで、経正の袂にすがり、袖をひかへて、名残ををしみ涙をながさぬはなかりけり。其中にも、経正の幼少の時、小師でおはせし大納言法印行慶と申は、葉室大納言光頼卿の御子也。あまりに名残をおしみて、桂河のはたまでうちをくり、さてもあるべきならねば、其よりいとまこうて泣々わかれ給ふに、法印かうぞおもひつゞけ給ふ。

 あはれなり老木わか木の山ざくらをくれさきだち花はのこらじ

経正の返事には、

  旅ごろも夜な夜な袖をかたしきておもへばわれはとをくゆきなん

 さてまいてもたせられたる赤旗ざとさしあげたり。あそここゝにひかへて待奉る侍共、あはやとて馳あつまり、その勢百騎ばかり、鞭をあげ駒をはやめて、程なく行幸につき奉る。

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