今昔物語集巻第二十八

近江国矢馳の郡司の堂供養の田楽の語 第七
 
 
今は昔、比叡の山の西塔に住みける教円座主と云ふ学生有りけり。物可咲しく云ひて人咲はする説経教化をなむしける。
 
其れが未だ若くして、供奉ト云ひて西塔に有りける時に、近江国■郡に、矢馳と云ふ所に有りける郡司の男、年来極く此の人に志有りて、山の不合の事共など常に訪ひければ、教円、若き程にて貧しき身なれば、喜しく思ひて過ぐしける程に、彼の郡司の男、態と来たり。「何事に来たりつるぞ」と問ふ。郡司の男の云はく、「年来の願に依りて、仏堂をなむ造り奉りて候ふを、此れ懃ろに吉く供養し奉らむとなむ思ひ給ふる。年来の睦に御しましなむや、何に。亦、懃ろに仕るべからむ事共をも、仰せられむに随ひて構へ候ふべきなり。年罷老いて候へば、偏へに後世の為にと思ひてなむ候ふ」と云へば、教円、「詣でむ事は糸安き事なり。其の日の未だ朝、三津の辺に迎の船を遣せ給へ。亦矢馳の津に、馬二三疋に鞍置きて遣せ給ふべきなり。然らば功徳懃ろに為るには、舞楽を以てこそは供養すれ。此れは皆極楽・天上の様なり。但し其れは楽人など呼び下すは大事なれば、否)呼び給はじ」など云へば、郡司が云はく、「楽人は己れが住み候ふ津に皆候へば、楽仕らむ事は、事にも候はず、安き事に候ふ。然れば楽を仕るべきにこそ候ふなれ」と云へば、教円供奉の云はく、「然だに有らば、極めたる功徳に成りなむ。疾く疾く返りて、其の日の暁に三津の辺に行きて船を待るべきなり」と云ひて去りぬ。
 
其の日に成りて、暁に未だ暗きに、西塔よりぎ下りて、三津の辺に白々と明くる程に行きたれば、船は兼てより儲けたりければ、乗りて行きけるに、矢馳に渡る程、一時許の渡なれば、巳の時許にぞ津に渡り着きたりける。見れば、前には、「鞍置たる馬、三疋」と云ひしかど十余疋許引き立てたり。亦白装束したる男共十余人許立ち並みたり。凡そ様々の下人共、四五十人許村々に立てり。供奉、「此れは物見る者共にや有らむ、何を見るぞ」と思ひて東西を見迴らせば、露見るべき物も只今見えず。船寄せつれば下りて、引き寄せたる馬に乗りぬ。共なる法師二人、亦馬に乗せて、前に打立ちたるに、今十余疋許の馬に、此の白装束したる男共、はらはらと乗りぬ。「此の男共は迎に遣せたるなりけり」と、其の時になむ心得ける。日の高く成りぬれば、馬を早めてぎ行くに、此の白装束の男共の馬に乗りたる、或いはひた黒なる田楽を腹に結ひ付けて、袂より肱を取り出だして、左右の手に桴を持ちたり。或いは笛を吹き、高拍子を突き、■を突き、を差して、様々の田楽を、二つ物・三つ物に儲テ、打り、吹きつれつつ狂ふ事限無し。供奉此れを見て、「此は何に為る事にか有らむ」と思へども、■て否問はず。

 

而る間、此の田楽の奴原、或いは馬の前に打立ち、或いは馬の後に有り、或いは喬平に立ちて打行く。然れば供奉、「今日此の郷御霊会にや有らむ」と思へば、「極じかりける折にしも来たり会ひて、此かる奴原の中に具して行くは、物狂はしき態かな、不意に知りたる人や会はむ」と思へば、袖を以て顔をつぶと隠して行くに、郡司が家漸く近く見ゆ。家の門の前に、百千人の立ち挙りて見る。疾くぎて行かむと為るに、此の田楽の奴原、供奉に向ひ合ひて、皷を打ちて向ひ、■を笠の鉉に突き懸け、を捧げて頭の上に招き、此くしつつ行きも遣らせず。腹立たしき事限無し。

辛くして郡司が門の許に行き着きて、馬より下りむと為る程に、郡司祖子出で来て、左右の馬の口を取りて、乗せながら家の内に傅き入るれば、供奉、「此くな為そ。只其こにて下せ」と云へども、「穴忝なや」と云ひて、耳にも聞き入れず。然て、此の田楽の奴原は、馬の左右に烈しつつ、次きて遊びて入る。郡司、「吉く仕れ、己れ等」と云へば、皷打つ者三人、馬の前に向ひて乙で仰け張りて、極じく打ち行けば、供奉佗びて、疾く下しては吉かるべきに、此く狂ひ行けば、馬をも歩ばせずして、のどのどと馬を歩ばする程に、家の内、市を成してる。辛くして廊の有る妻に馬を押し寄せたれば、喜びながら下りぬ。■たる所に居ゑつ。

先づ心も得ぬ事なれば、供奉、郡司に、「彼の郡司の主、聞き給へ。此の田楽は何の料にて為させ給ふぞ」と問へば、郡司が云はく、「西塔に参りたりしに、懃ろに為る功徳には楽をなむ為るぞと仰せられしかば、儲けて候ふなり。其れに、講師をば楽をしてなむ迎へ奉るべきと人の申せば、参らせて候ひつるなり」と。供奉、其の折にぞ、「此奴は田楽を以て楽とは知りたりけるなりけり」と心得て、可咲しく思へども、云ふべき人も無かりければ、供養し畢てて、山に登りて、勇みたる小僧共の中に、田楽の事を語れば、とよみて咲ひける事限無し。
 
供奉、本より物云の上手なりければ、何に可咲しく語りけむ。「賤しの田舎人なれども、皆然様の事は知りたる者を、彼の郡司は無下なりける奴かな」とぞ、此れを聞く人皆謗り咲ひけるとなむ、語り伝へたるとや。
inserted by FC2 system