天皇の崩りましし時に、大后の作らす歌一首
159 やすみしし 我が大君し 夕されば 見したまふらし 明け来れば 問ひたまふらし 神岳の 山の黄葉を 今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも 見したまはまし その山を 振り放け見つつ 夕されば あやに悲しみ 明け来れば うらさび暮らし 荒栲の 衣の袖は 干る時もなし
一書に曰はく、天皇の崩りましし時の太上天皇の御製歌二首
160 燃ゆる火も 取りて包みて 袋には 入ると言はずやも 智男雲
161 北山に たなびく雲の 青雲の 星離れ行き 月を離れて
天皇の崩りましし後の八年九月九日の奉為の御斎会の夜に、夢の裏に習ひたまふ御歌一首 古歌集の中に出づ
162 明日香の 清御原の宮に 天の下 知らしめしし やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡みたる波に 潮気のみ 香れる国に 味凝り あやにともしき 高照らす 日の御子
藤原の宮に天の下知らしめす天皇の代 高天原広野姫天皇、天皇の元年丁亥の十一年に、位を軽太子に譲り、尊号を太上天皇といふ
大津皇子薨りましし後、大伯皇女伊勢の斎宮より京に上る時の御作歌二首
163 神風の 伊勢の国にも あらましを 何しか来けむ 君もあらなくに
164 見まく欲り 我がする君も あらなくに 何しか来けむ 馬疲るるに
大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時、大伯皇女の哀しび傷む御作歌二首 ☆故地
165 うつそみの 人にある我れや 明日よりは 二上山を 弟背と我が見む
166 磯の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が 在りと言はなくに ☆花
右の一首は、今案ふるに、移し葬る歌に似ず。けだし疑はくは、伊勢の神宮より京に還る時に、路の上に花を見て感傷哀咽してこの歌を作るか。
日並皇子尊の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首并せて短歌
167 天地の 初めの時 ひさかたの 天の河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひいまして 神分ち 分ちし時に 天照らす 日女の命 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命と 天雲の 八重かき別けて 神下し いませまつりし 高照らす 日の御子は 明日香の 清の宮に 神ながら 太敷きまして すめろきの 敷きます国と 天の原 岩戸を開き 神上り 上りいましぬ 我が大君 皇子の命の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴くあらむと 望月の 満しけむと 天の下 四方の人の 大船の 思ひ頼みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 真弓の岡に 宮柱 太敷きいまし みあらかに 高知りまして 朝言に 御言問はさぬ 日月の 数多くなりぬれ そこ故に 皇子の 宮人 ゆくへ知らずも
反歌二首
168 ひさかたの 天見るごとく 仰ぎ見し 皇子の御門の 荒れまく惜しも
169 あかねさす 日は照らせれど ぬばたまの 夜渡る月の 隠らく惜しも ☆花
或本には、件の歌をもちて、後皇子尊の殯宮の時の歌の反とす
或本の歌一首
170 島の宮 まがりの池の 放ち鳥 人目に恋ひて 池に潜かず
皇子尊の宮の舎人等、慟傷しびて作る歌二十三首
171 高光る 我が日の御子の 万代に 国知らさまし 島の宮はも
172 島の宮 上の池なる 放ち鳥 荒びな行きそ 君座さずとも
173 高光る 我が日の御子の いましせば 島の御門は 荒れずあらましを
174 外に見し 真弓の岡も 君座せば 常つ御門と 侍宿するかも
175 夢にだに 見ずありしものを おほほしく 宮出もするか さ檜の隈みを
176 天地と ともに終へむと 思ひつつ 仕へまつりし 心違ひぬ
177 朝日照る 佐田の岡辺に 群れ居つつ 我が泣く涙 やむ時もなし
178 み立たしの 島を見る時 にはたづみ 流るる涙 止めぞかねつる
179 橘の 島の宮には 飽かねかも 佐田の岡辺に 侍宿しに行く
180 み立たしの 島をも家と 住む鳥も 荒びな行きそ 年かはるまで
181 み立たしの 島の荒磯を 今見れば 生ひずありし草 生ひにけるかも
182 鳥座立て 飼ひし雁の子 巣立ちなば 真弓の岡に 飛び帰り来ね
183 我が御門 千代とことばに 栄えむと 思ひてありし 我れし悲しも
184 東の たぎの御門に 侍へど 昨日も今日も 召す言もなし
185 水伝ふ 磯の浦みの 岩つつじ 茂く咲く道を またも見むかも ☆花
186 一日には 千たび参りし 東の 大き御門を 入りかてぬかも
187 つれもなき 佐田の岡辺に 帰り居ば 島の御階に 誰れか住まはむ
188 朝ぐもり 日の入り行けば み立たしの 島に下り居て 嘆きつるかも
189 朝日照る 島の御門に おほほしく 人音もせねば まうら悲しも
190 真木柱 太き心は ありしかど この我が心 鎮めかねつも
191 けころもを 時かたまけて 出でましし 宇陀の大野は 思ほえむかも
192 朝日照る 佐田の岡辺に 鳴く鳥の 夜哭きかへらふ この年ころを
193 畑子らが 夜昼といはず 行く道を 我れはことごと 宮道にぞする
右は、日本紀には「三年己丑の夏の四月癸未の朔の乙未に薨ず」といふ。
柿本朝臣人麻呂、泊瀬部皇女と忍壁皇子とに献る歌一首 并せて短歌
194 飛ぶ鳥 明日香の川 上つ瀬に 生ふる玉藻は 下つ瀬に 流れ触らばふ 玉藻なす か寄りかく寄り 靡かひし 夫の命の たたなづく 柔肌すらを 剣大刀 身に添へ寝ねば ぬばたまの夜床も荒るらむ そこ故に 慰めかねて けだしくも 逢ふやと思ひて 玉垂の 越智の大野の 朝露に 玉裳はひづち 夕霧に 衣は濡れて 草枕 旅寝かもする 逢はぬ君故 ☆故地
反歌一首
195 敷栲の 袖交へし君 玉垂の 越智野過ぎ行く またも逢はめやも
右は、或本には「河島皇子を越智野に葬りし時に、泊瀬部皇女に献る歌なり」といふ。日本紀には「朱鳥の五年辛卯の秋の九月の朔の丁丑に、浄大参皇子川島薨ず」といふ。
明日香皇女の城上の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 并せて短歌
196 飛ぶ鳥 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡す 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に 生ひ靡ける 玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる 打橋に 生ひをゐれる 川藻もぞ 枯るれば生ふる なにしかも 我が大君の 立たせば 玉藻のもころ 臥やせば 川藻のごとく 靡かひし 宜しき君が 朝宮を 忘れたまふや 夕宮を 背きたまふや うつそみと 思ひし時に 春へは 花折りかざし 秋立てば 黄葉かざし 敷栲の 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月の いや愛づらしみ 思ひしし 君と時時 出でまして 遊びたまひし 御食向ふ 城上の宮を 常宮と 定めたまひて あぢさはふ 目言も絶えぬ しかれかも あやに悲しみ ぬえ鳥の 片恋づま 朝鳥の 通はす君が 夏草の 思ひ萎えて 夕星の か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば 慰もる 心もあらず そこ故に 為むすべ知れや 音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 偲ひ行かむ 御名に懸かせる 明日香川 万代までに はしきやし 我が大君の 形見にここを
短歌二首
197 明日香川 しがらみ渡し 塞かませば 流るる水も のどにかあらまし
198 明日香川 明日だに見むと 思へやも 我が大君の 御名忘れせぬ