丹比真人笠麻呂、紀伊の国に往き、背の山を越ゆる時に作る歌一首 285 栲領布の 懸けまく欲しき 妹の名を この背の山に 懸けばいかにあらむ 春日蔵首老、即ち和ふる歌一首 286 よろしなへ 我が背の君が 負ひ来にし この背の山を 妹とは呼ばじ 志賀に幸す時に、石上卿が作る歌一首 名は欠けたり 287 ここにして 家やもいづち 白雲の たなびく山を 越えて来にけり 穂積朝臣老が歌一首 288 我が命し ま幸くあらば またも見む 志賀の大津に 寄する白波 右は、今案ふるに幸行の年月を審らかにせず。 間人宿禰大浦が初月の歌二首 289 天の原 振り放け見れば 白真弓 張りて懸けたり 夜道はよけむ ☆花 290 倉橋の 山を高みか 夜隠りに 出で来る月の 光乏しき ☆故地 小田事が背の山の歌一首 291 真木の葉の しなふ背の山 しのはずて 我が越え行けば 木の葉知りけむ 角麻呂が歌四首 292 ひさかたの 天の探女が 岩船の 泊てし高津は あせにけるかも ☆故地 293 潮干の 御津の海女の くぐつ持ち 玉藻刈るらむ いざ行きて見む 294 風をいたみ 沖つ白波 高からし 海人の釣舟 浜に帰りぬ 295 住吉の 岸の松原 遠つ神 我が大君の 幸しところ 田口益人大夫、上野の国司に任けらゆる時に、駿河の清見の崎に至りて作る歌二首 ☆故地 296 廬原の 清見の崎の 三保の浦の ゆたけき見つつ もの思ひもなし 297 昼見れど 飽かぬ田子の浦 大君の 命畏み 夜見つるかも 弁基が歌一首 298 真土山 夕越え行きて 廬前の 角太川原に ひとりかも寝む ☆故地 右は、或いは「弁基は春日蔵首老が法師名」といふ。 大納言大伴卿が歌一首 いまだ詳らかにあらず 299 奥山の 菅の葉しのぎ 降る雪の 消なば惜しけむ 雨な降りそね 長屋王、馬を奈良山に駐めて作る歌二首 300 佐保過ぎて 奈良の手向けに 置く幣は 妹を目離れず 相見しめとぞ 301 岩が根の こごしき山を 越えかねて 音には泣くとも 色に出でめやも 中納言安倍広庭卿が歌一首 302 子らが家道 やや間遠きを ぬばたまの 夜渡る月に 競ひあへむかも 柿本朝臣人麻呂、筑紫の国に下る時に、海道にして作る歌二首 303 名ぐはしき 印南の海の 沖つ波 千重に隠りぬ 大和島根は 304 大君の 遠の朝廷と あり通ふ 島門を見れば 神代し思ほゆ 高市連黒人が近江の旧き都の歌一首 305 かく故に 見じと言ふものを 楽浪の 旧き都を 見せつつもとな 右の歌は、或本には「小弁が作」といふ。いまだこの小弁といふ者を審らかにせず。 伊勢の国に幸す時に、安貴王が作る歌一首 306 伊勢の海の 沖つ白波 花にもが 包みて妹が 家づとにせむ 博通法師、紀伊の国に行き、三穂の石室を見て作る歌三首 307 はだすすき 久米の若子が いましける 三穂の石室は 見れど飽かぬかも ☆花 308 常磐なす 石室は今も ありけれど 住みける人ぞ 常なかりける 309 石室戸に 立てる松の木 汝を見れば 昔の人を 相見るごとし 門部王、東の市の樹を詠みて作る歌一首 後に姓大原真人の氏jを賜はる 310 東の 市の植木の 木垂るまで 逢はず久しみ うべ恋ひにけり 鞍作村主益人、豊前の国より京に上る時に作る歌 311 梓弓 引き豊国の 鏡山 見ず久ならば 恋しけむかも ☆故地 式部卿藤原宇合卿、難波の京を改め造らしめらゆる時に作る歌一首 ☆故地 312 昔こそ 難波田舎と 言はれけめ 今は都引き 都びにけり 土理宣令が歌一首 313 み吉野の 滝の白波 知らねども 語りし継げば いにしへ思ほゆ 波多朝臣小足が歌一首 314 さざれ波 磯越道なる 能登瀬川 音のさやけさ たぎつ瀬ごとに
暮春の月に、吉野の離宮に幸す時に、中納言大伴卿、勅を奉りて作る歌一首 并せて短歌 いまだ奏上を経ぬ歌 315 み吉野の 吉野の宮は 山からし 貴くあらし 水からし さやけくあらし 天地と 長く久しく 万代に 改らずあらむ 幸しの宮 反歌 316 昔見し 象の小川を 今見れば いよよさやけく なりにけるかも ☆故地 山部宿禰赤人、富士の山を望る歌一首 并せて短歌 ☆故地 317 天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 降り放け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は 反歌 318 田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける 富士の山を詠む歌一首 并せて短歌 319 なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 富士の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上らず 燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ 言ひも得ず 名付けも知らず くすしくも います神かも せの海と 名付けてあるも その山の 堤める海ぞ 富士川と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ 日本の 大和の国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかも 反歌 320 富士の嶺に 降り置く雪は 六月の 十五日に消ぬれば その夜降りけり 321 富士の嶺を 高み畏み 天雲も い行きはばかり たなびくものを 山部宿禰赤人、伊予の温泉に至りて作る歌一首 并せて短歌 ☆故地 322 すめろきの 神の命の 敷きいます 国のことごと 湯はしも さはにあれども 島山の 宜しき国と こごしかも 伊予の高嶺の 射狭庭の 岡に立たして 歌思ひ 辞思ほしし み湯の上の 木群を見れば 臣の木も 生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず 遠き代に 神さびゆかむ 幸しところ 反歌 323 ももしきの 大宮人の 熟田津に 船乗りしけむ 年の知らなく ☆故地 神岳に登りて、山部宿禰赤人が作る歌 并せて短歌 324 みもろの 神なび山に 五百枝さし 繁に生ひたる 栂の木の いや継ぎ継ぎに 玉葛 絶ゆることなく ありつつも やまず通はむ 明日香の 古き都は 山高み 川とほしろし 春の日は 山し見が欲し 秋の夜は 川しさやけし 朝雲に 鶴は乱れ 夕霧に かはづは騒く 見るごとに 音のみし泣かゆ いにしへ思へば 反歌 325 明日香川 川淀さらず 立つ霧の 思ひ過ぐべき 恋にあらなくに ☆故地 門部王、難波に在りて、海人の燭光を見て作る歌一首 後に姓大原真人の氏を賜はる 326 見わたせば 明石の浦に 燭す火の 穂にぞ出でぬる 妹に恋ふらく 或る娘子ら、裹める乾し鰒を贈りて、戯れて通観僧の呪願を請ふ時に、通観が作る歌一首 327 海神の 沖に持ち行きて 放つとも うれむぞこれが よみがへりなむ 大宰少弐小野老朝臣が歌一首 328 あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり 防人司佑大伴四綱が歌二首 329 やすみしし 我が大君の 敷きませる 国に中には 都し思ほゆ 330 藤波の 花は盛りに なりにけり 奈良の都を 思ほすや君 ☆花 帥大伴卿が歌五首 331 我が盛り またをちめやも ほとほとに 奈良の都を 見ずかなりなむ 332 我が命も 常にあらぬか 昔見し 象の小川を 行きて見むため ☆故地 333 浅茅原 つばらつばらに もの思へば 古りにし里し 思ほゆるかも ☆花 334 忘れ草 我が紐に付く 香具山の 古りにし里を 忘れむがため ☆故地 ☆花 335 我が行きは 久にはあらじ 夢のわだ 瀬にはならずて 淵にしありこそ ☆故地 沙弥満誓、綿を詠む歌一首 造筑紫観音寺別当、俗姓は笠朝臣麻呂なり ☆故地 336 しらぬひ 筑紫の綿は 身に付けて いまだは着ねど 暖けく見ゆ |