巻三 285〜336

丹比真人笠麻呂(たぢひのまひとかさまろ)紀伊()の国に()き、()の山を越ゆる時に作る歌一首
285 (たく)()()の ()けまく()しき 妹の名を この背の山に ()けばいかにあらむ

春日蔵首老(かすがのくらびとおゆ)(すなは)(こた)ふる歌一首
286 よろしなへ 我が()(きみ)が 負ひ()にし この()の山を (いも)とは呼ばじ

()()(いでま)す時に、石上卿(いそのかみのまへつきみ)が作る歌一首 名は欠けたり
287 ここにして 家やもいづち 白雲(しらくも)の たなびく山を 越えて来にけり

穂積朝臣老(ほづみのあそみおゆ)が歌一首
288 我が(いのち)し ま(さき)くあらば またも()む 志賀(しが)大津(おおつ)に ()する白波(しらなみ)
右は、今(かむが)ふるに幸行(いでまし)の年月を(つばひ)らかにせず。

間人宿禰大浦(はしひとのすくねおほうら)初月(みかづき)の歌二首
289 (あま)(はら) ()()け見れば (しら)真弓(まゆみ) ()りて()けたり ()(みち)はよけむ   
290 (くら)(はし)の 山を高みか ()(ごも)りに ()()る月の 光(とも)しき   故地

小田事(をだのつかさ)()の山の歌一首
291 真木(まき)の葉の しなふ()の山 しのはずて 我が越え行けば ()の葉知りけむ

角麻呂(つののまろ)が歌四首
292 ひさかたの (あま)(さぐ)()が (いは)(ふね)の ()てし(たか)()は あせにけるかも   故地
293 (しお)()の ()()海女(あまめ)の くぐつ持ち (たま)()刈るらむ いざ行きて見む
294 風をいたみ 沖つ白波 高からし 海人(あま)の釣舟 浜に帰りぬ
295 住吉(すみのえ)の 岸の松原(まつばら) (とほ)つ神 我が大君(おほきみ)の (いでま)しところ

田口益人大夫(たのくちのますひとのまへつきみ)上野(かみつけの)国司(くにのつかさ)()けらゆる時に、駿河(するが)(きよ)()の崎に至りて作る歌二首   故地
296 (いほ)(はら)の (きよ)()の崎の 三保(みほ)の浦の ゆたけき見つつ もの()ひもなし
297 昼見れど ()かぬ()()(うら) 大君の (みこと)(かしこ)み (よる)見つるかも

(べん)()が歌一首
298 ()(つち)(やま) (ゆふ)越え行きて (いほ)(さき)の (すみ)()川原(かはら)に ひとりかも寝む   故地
右は、或いは「(べん)()春日蔵首老(かすがのくらびとおゆ)法師(ほふし)()」といふ。

大納言大伴卿(おほとものまへつきみ)が歌一首 いまだ(つばひ)らかにあらず
299 奥山(おくやま)の (すが)の葉しのぎ 降る雪の ()なば惜しけむ 雨な降りそね

長屋王(ながやのおほきみ)、馬を奈良山に()めて作る歌二首
300 ()()過ぎて 奈良の()()けに 置く(ぬさ)は (いも)()()れず (あひ)()しめとぞ
301 岩が根の こごしき山を 越えかねて ()には泣くとも 色に()でめやも

中納言安倍広庭卿(あへのひろにはのまへつきみ)が歌一首
302 子らが(いへ)() やや()(どほ)きを ぬばたまの ()(わた)る月に (きほ)ひあへむかも

柿本朝臣人麻呂、筑紫(つくし)の国に(くだ)る時に、(うみ)()にして作る歌二首
303 ()ぐはしき 印南(いなみ)の海の 沖つ波 千重(ちへ)(かく)りぬ 大和(やまと)(しま)()
304 (おほ)(きみ)の (とほ)朝廷(みかど)と あり(がよ)ふ (しま)()を見れば (かむ)()し思ほゆ

高市連黒人(たけちのむらじくろひと)近江(あふみ)(ふる)き都の歌一首
305 かく(ゆゑ)に 見じと言ふものを (ささ)(なみ)の (ふる)き都を 見せつつもとな
右の歌は、或本には「小弁(せうべん)が作」といふ。いまだこの小弁といふ者を(つばひ)らかにせず。

伊勢の国に(いでま)す時に、安貴王(あきのおほきみ)が作る歌一首
306 伊勢の海の 沖つ白波 花にもが 包みて(いも)が (いへ)づとにせむ

博通法師(はくつうほふし)紀伊()の国に行き、()()石室(いはや)を見て作る歌三首
307 はだすすき 久米(くめ)(わく)()が いましける ()()(いは)()は 見れど()かぬかも   
308 常磐(ときは)なす 石室(いはや)は今も ありけれど 住みける人ぞ 常なかりける
309 (いは)()()に 立てる(まつ)木 ()を見れば 昔の人を (あい)()るごとし

門部王(かどへのおほきみ)(ひむがし)(いち)()()みて作る歌一首 後に姓大原真人(おほはらのまひと)(うぢ)jを賜はる
310 (ひむがし)の (いち)植木(うゑき)の ()()るまで ()はず久しみ うべ恋ひにけり

鞍作村主益人(くらつくりのすぐりますひと)豊前(とよのみちのくち)の国より京に上る時に作る歌
311 梓弓(あづさゆみ) 引き(とよ)(くに)の 鏡山(かがみやま) 見ず(ひさ)ならば 恋しけむかも   故地

式部卿(しきぶのきやう)藤原宇合卿(ふぢはらのうまかひのまへつきみ)難波(なには)の京を改め造らしめらゆる時に作る歌一首   故地
312 昔こそ 難波(なには)田舎(ゐなか)と 言はれけめ 今は(みやこ)()き 都びにけり

土理宣令(とりのせんりやう)が歌一首
313 吉野(よしの)の (たき)の白波 知らねども 語りし()げば いにしへ思ほゆ

波多朝臣小足(はたのあそみをたり)が歌一首
314 さざれ波 (いそ)(こし)()なる 能登(のと)()(かわ) 音のさやけさ たぎつ瀬ごとに

暮春の月に、吉野の離宮(とつみや)(いでま)す時に、中納言大伴卿(おほとものまへつきみ)(みことのり)(うけたまは)りて作る歌一首 (あは)せて短歌 いまだ奏上を()ぬ歌
315 み吉野の 吉野の宮は 山からし (たふと)くあらし (かは)からし さやけくあらし 天地(あめつち)と 長く久しく 万代(よろづよ)に (かは)らずあらむ (いでま)しの宮

反歌
316 昔見し (きさ)小川(をがは)を 今見れば いよよさやけく なりにけるかも   故地

山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと)富士の山()る歌一首 (あは)せて短歌   故地
317 天地(あめつち)の (わか)れし時ゆ (かむ)さびて 高く(たふと)き 駿河(するが)なる 富士(ふじ)高嶺(たかね)を (あま)(はら) ()()け見れば 渡る日の (かげ)(かく)らひ 照る月の 光も見えず 白雲(しらくも)も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り()ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は

反歌
318 ()()(うら)ゆ うち()でて見れば ()(しろ)にぞ 富士(ふじ)高嶺(たかね)に 雪は降りける

富士の山を()む歌一首 (あは)せて短歌
319 なまよみの 甲斐(かひ)の国 うち寄する 駿河(するが)の国と こちごちの 国のみ(なか)ゆ ()で立てる 富士の高嶺(たかね)は 天雲(あまくも)も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも(のぼ)らず ()ゆる火を 雪もち()ち 降る雪を 火もち消ちつつ 言ひも()ず 名付けも知らず くすしくも います神かも せの海と 名付けてあるも その山の (つつ)める海ぞ 富士川と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ 日本(ひのもと)の 大和(やまと)の国の (しづ)めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は 見れど()かぬかも

反歌
320 富士の()に 降り置く雪は 六月(みなつき)の 十五日(もち)()ぬれば その夜降りけり
321 富士の()を 高み(かしこ)み 天雲(あまくも)も い行きはばかり たなびくものを

山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと)伊予(いよ)温泉()に至りて作る歌一首 并せて短歌   故地
322 すめろきの (かみ)(みこと)の 敷きいます 国のことごと ()はしも さはにあれども 島山の (よろ)しき国と こごしかも 伊予(いよ)高嶺(たかね)の ()()(には)の 岡に立たして 歌思ひ (こと)思ほしし み湯の(うへ)の ()(むら)を見れば (おみ)の木も ()ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず 遠き代に 神さびゆかむ (いでま)しところ

反歌
323 ももしきの 大宮(おほみや)(ひと)の (にき)()()に (ふな)()りしけむ 年の知らなく   故地

神岳(かみをか)に登りて、山部宿禰赤人が作る歌 (あは)せて短歌
324 みもろの (かむ)なび山に 五百(いほ)()さし (しじ)に生ひたる (つが)の木の いや()ぎ継ぎに (たま)(かづら) 絶ゆることなく ありつつも やまず(かよ)はむ 明日香(あすか)の 古き都は 山高み 川とほしろし 春の日は 山し見が()し 秋の夜は 川しさやけし (あさ)(くも)に (たづ)は乱れ 夕霧(ゆふぎり)に かはづは(さわ)く 見るごとに ()のみし泣かゆ いにしへ思へば

反歌
325 明日香(あすか) (かは)(よど)さらず 立つ霧の 思ひ過ぐべき 恋にあらなくに   故地

門部王(かどへのおほきみ)難波(なには)()りて、海人(あま)燭光(ともしび)を見て作る歌一首 後に姓大原真人(おほはらのまひと)(うぢ)を賜はる
326 見わたせば 明石(あかし)の浦に (とも)す火の 穂にぞ出でぬる (いも)に恋ふらく

或る娘子(をとめ)ら、(つつ)める()(あはび)を贈りて、(たはぶ)れて通観(つうくわん)(ほふし)呪願(しゆぐわん)()ふ時に、通観が作る歌一首
327 海神(わたつみ)の 沖に持ち行きて 放つとも うれむぞこれが よみがへりなむ

大宰少弐(だざいのせうに)小野老朝臣(をののおゆのあそみ)が歌一首
328 あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり

防人司佑(さきもりのつかさのすけ)大伴四綱(おほとものよつな)が歌二首
329 やすみしし 我が大君(おほきみ)の 敷きませる 国に(うち)には 都し思ほゆ
330 (ふぢ)(なみ)の 花は盛りに なりにけり 奈良の都を 思ほすや君   

(そち)大伴卿(おほとものまへつきみ)が歌五首
331 我が盛り またをちめやも ほとほとに 奈良(なら)の都を 見ずかなりなむ
332 我が(いのち)も 常にあらぬか 昔見し (きさ)小川(をがは)を 行きて見むため   故地
333 (あさ)()(はら) つばらつばらに もの思へば ()りにし里し 思ほゆるかも   
334 (わす)(ぐさ) 我が(ひも)に付く 香具山の ()りにし里を 忘れむがため   故地 
335 我が行きは (ひさ)にはあらじ (いめ)のわだ ()にはならずて (ふち)にしありこそ   故地

沙弥満誓(さみまんぜい)、綿を詠む歌一首  (ぞう)筑紫(つくし)観音寺(くわんおんじの)別当(べっとう)、俗姓は笠朝臣麻呂(かさのあそみまろ)なり   故地
336 しらぬひ 筑紫(つくし)の綿は 身に付けて いまだは()ねど (あたた)けく見ゆ

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