萬葉集 巻第四
相聞
難波天皇の妹、大和に在す皇兄に奉上る御歌一首 484 一日こそ 人も待ちよき 長き日を かく待たゆれば 有りかつましじ 岡本天皇の御製一首 并せて短歌 485 神代より 生れ継ぎ来れば 人さはに 国には満ちて あぢ群の 騒きは行けど 我が恋ふる 君にしあらねば 昼は 日の暮るるまで 夜は 夜の明くる極み 思ひつつ 寐も寝かてにと 明かしつらくも 長きこの夜を 反歌 486 山の端に あぢ群騒き 行くなれど 我れは寂しゑ 君にしあらねば 487 淡海道の 鳥籠の山なる 不知哉川 日のころごろは 恋ひつつもあらむ ☆故地
右は、今案ふるに、高市の岡本の宮、後の岡本の宮の二代二帝おのおの異にあり。ただし岡本天皇といふは、いまだその指すところ審らかにあらず。
額田王、近江天皇を思ひて作る歌一首 488 君待つと 我が恋ひ居れば 我がやどの 簾動かし 秋の風吹く 鏡王女が作る歌一首 489 風をだに 恋ふるは羨し 風をだに 来むとし待たば 何か嘆かむ 吹刀自が歌二首 490 真野の浦の 淀の継橋 心ゆも 思へや妹が 夢にし見ゆる 491 川の上の いつ藻の花の いつもいつも 来ませ我が背子 時じけめやも 田部忌寸櫟子、大宰に任けらゆる時の歌四首 492 衣手に 取りとどこほり 泣く子にも まされる我れを 置きていかにせむ 舎人吉年 493 置きていなば 妹恋ひむかも 敷栲の 黒髪敷きて 長きこの夜を 田部忌寸櫟子 494 我妹子を 相知らしめし 人をこそ 恋のまされば 恨めしみ思へ 495 朝日影 にほへる山に 照る月の 飽かざる君を 山越しに置きて 柿本朝臣人麻呂が歌四首 496 み熊野の 浦の浜木綿 百重なす 心は思へど 直に逢はぬかも ☆故地 ☆花 497 いにしへに ありけむ人も 我がごとか 妹に恋ひつつ 寐ねかてずけむ 498 今のみの わざにはあらず いにしへの 人ぞまさりて 音にさへ泣きし 499 百重にも 来及かぬかもと 思へかも 君が使の 見れど飽かずあらむ 碁檀越、伊勢の国に行く時に、留まれる妻の作る歌一首 500 神風の 伊勢の浜荻 折り伏せて 旅寝やすらむ 荒き浜辺に 柿本朝臣人麻呂が歌三首 501 未通女らが 袖布留山の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひき我れは ☆故地 502 夏野行く 小鹿の角の 束の間も 妹が心を 忘れて思へや 503 玉衣の さゐさゐしづみ 家の妹に 物言はず来にて 思ひかねつも 柿本朝臣人麻呂が妻の歌一首 504 君が家に 我が住坂の 家道をも 我れは忘れじ 命死なずは 安倍女郎が歌二首 505 今さらに 何をか思はむ うち靡き 心は君に 寄りにしものを 506 我が背子は 物な思ひそ 事しあらば 火にも水にも 我がなけなくに 駿河采女が歌一首 507 敷栲の 枕ゆくくる 涙にぞ 浮寝をしける 恋の繁きに 三方沙弥が歌一首 508 衣手の 別くる今夜ゆ 妹も我れも いたく恋ひなむ 逢ふよしをなみ 丹比真人笠麻呂、筑紫の国に下る時に作る歌一首 并せて短歌 509 臣の女の 櫛笥に乗れる 鏡なす 御津の浜辺に さ丹つらふ 紐解き放けず 我妹子に 恋ひつつ居れば 明け暮れの 朝霧隠り 鳴く鶴の 音のみし泣かゆ 我が恋ふる 千重の一重も 慰もる 心もありやと 家のあたり 我が立ち見れば 青旗の 葛城山に たなびける 白雲隠る 天さがる 鄙の国辺に 直向ふ 淡路を過ぎ 粟島を そがひに見つつ 朝なぎに 水手の声呼び 夕なぎに 楫の音しつつ 波の上を い行きさぐくみ 岩の間を い行き廻り 稲目都麻 浦みを過ぎて 鳥じもの なづさひ行けば 家の島 荒磯の上に うち靡き 繁に生ひたる なのりそが などかも妹に 告らず来にけむ 反歌 510 白栲の 袖解き交へて 帰り来む 月日を数みて 行きて来ましを 伊勢の国に幸す時に当麻麻呂大夫が妻の作る歌一首 511 我が背子は いづく行くらむ 沖つ藻の 名張の山を 今日か越ゆらむ 草嬢が歌一首 512 秋の田の 穂田の刈りばか か寄りあはば そこもか人の 我を言成さむ 志貴皇子の御歌一首 513 大原の このいち柴の いつしかと 我が思ふ妹に 今夜逢へるかも 阿倍女郎が歌一首 514 我が背子が 着せる衣の 針目おちず 入りにけらしも 我が心さへ 中臣朝臣東人が阿倍女郎に贈る歌一首 515 ひとり寝て 絶えにし紐を ゆゆしみと 為むすべ知らに 音のみしぞ泣く 阿倍女郎が答ふる歌一首 516 我が持てる 三相に縒れる 糸もちて 付けてましもの 今ぞ悔しき 大納言兼大将軍大伴卿が歌一首 517 神木にも 手は触るといふを うつたへに 人妻といへば 触れぬものかも 石川郎女が歌一首 すなはち佐保大伴の大刀自なり 518 春日野の 山辺の道を 恐りなく 通ひし君が 見えぬころかも 大伴女郎が歌一首 今城王が母なり。今城王は後に大原真人の氏を賜はる 519 雨障み 常する君は ひさかたの きぞの夜の雨に 懲りにけむかも 後の人の追同する歌 520 ひさかたの 雨も降らぬか 雨障み 君にたぐひて この日暮らさむ 藤原宇合大夫、遷任して京に上る時に、常陸娘子が贈る歌一首 521 庭に立つ 麻手刈り干し 布曝す 東女を 忘れたまふな 京職藤原大夫が大伴郎女に贈る歌三首 卿、諱を麻呂といふ 522 娘子らが 玉櫛笥なる 玉櫛の 神さびけむに 妹に逢はずあれば 523 よく渡る 人は年にも ありといふを いつの間にぞも 我が恋ひにける 524 むし衾 なごやが下に 伏せれども 妹とし寝ねば 肌し寒しも 大伴郎女、和ふる歌四首 525 佐保川の 小石踏み渡り ぬばたまの 黒馬来る夜は 年にもあらぬか ☆故地 526 千鳥鳴く 佐保の川瀬の さざれ波 やむ時もなし 我が恋ふらくは 527 来むと言ふも 来ぬ時あるを 来じと言ふを 来むとは待たじ 来じと言ふものを 528 千鳥鳴く 佐保の川門の 瀬を広み 打橋渡す 汝が来と思へば
右、郎女は佐保大納言卿が女なり。初め一品穂積皇子に嫁ぎ、寵を被ること儔なし。しかして皇子薨ぜし後に、藤原麻呂大夫、郎女を娉ふ。郎女、坂上の里に家居す。よりて族氏号けて坂上郎女といふ。 また大伴坂上郎女が歌一首 529 佐保川の 岸のつかさの 柴な刈りそね ありつつも 春し来らば 立ち隠るがね 天皇、海上女王に賜ふ御歌一首 寧楽の宮に即位したまふ天皇なり 530 赤駒の 越ゆる馬柵の 標結ひし 妹が心は 疑ひもなし
右は、今案ふるに、この歌は古に擬ふる作なり。ただし、時の当れるをもちてすなはちこの歌を賜ふか。 海上女王が和へ奉る歌一首 志貴皇子の女なり 531 梓弓 爪引く夜音の 遠音にも 君が御幸を 聞かくしよしも
大伴宿奈麻呂宿禰が歌二首 佐保大納言の第三子なり 532 うちひさす 宮に行く子を ま悲しみ 留むれば苦し 遣ればすべなし 533 難波潟 潮干のなごり 飽くまでに 人の見む子を 我れし羨しも 安貴王が歌一首 并せて短歌 534 遠妻の ここにしあらねば 玉桙の 道をた遠み 思ふそら 安けなくに 嘆くそら 苦しきものを み空行く 雲にもがも 高飛ぶ 鳥にもがも 明日行きて 妹に言どひ 我がために 妹も事なく 我れも事なく 今も見しごと たぐひてもがも 反歌 535 敷栲の 手枕まかず 間置きて 年ぞ経にける 逢はなく思へば
右、安貴王、因幡の八上采女を娶る。係念きはめて甚し。愛情もとも盛りなり。時に勅して、不敬の罪に断め、本郷に退却く。ここに王の意悼び悲しびて、いささかにこの歌を作る。 門部王が恋の歌一首 536 意宇の海の 潮干の潟の 片思に 思ひや行かむ 道の長手を
右は、門部王、出雲守に任けらゆる時に、部内の娘子を娶る。いまだ幾時もあらねば、すでに往来を絶つ。月を累ねて後に、さらに愛しぶる心を起す。よりてこの歌を作りて娘子に贈り致す。 高田女王、今城王に贈る歌六首 537 言清く いともな言ひそ 一日だに 君にしなきは あへかたきかも 538 人言を 繁み言痛み 逢はずありき 心あるごと な思ひ我が背子 539 我が背子し 遂げむと言はば 人言は 繁くありとも 出でて逢はましを 540 我が背子に または逢はじかと 思へばか 今朝の別れの すべなくありつる 541 現世には 人言繁し 来む世にも 逢はむ我が背子 今ならずとも 542 常やまず 通ひし君が 使来ず 今は逢はじと たゆたひぬらし |