神亀元年甲子の冬の十月に、紀伊の国に幸す時に、従駕の人に贈らむために娘子に誂へらえて作る歌一首并せて短歌 笠朝臣金村 543 大君の 行幸のまにま もののふの 八十伴の男と 出で行きし 愛し夫は 天飛ぶや 軽の路より 玉たすき 畝傍を見つつ あさもよし 紀伊道に入り立ち 真土山 越ゆらむ君は 黄葉の 散り飛ぶ見つつ にきびにし 我れは思はず 草枕 旅をよろしと 思ひつつ 君はあるらむと あそそには かつは知れども しかすがに 黙もえあらねば 我が背子が 行きのまにまに 追はむとは 千たび思へど たわや女の 我が身にしあれば 道守の 問はむ答を 言ひやらむ すべを知らにと 立ちてつまづく ☆故地 反歌 544 後れ居て 恋ひつつあらずは 紀伊の国の 妹背の山に あらましものを 545 我が背子が 跡踏み求め 追ひ行かば 紀伊の関守い 留めてむかも 二年乙丑の春の三月に、三香の原の離宮に幸す時に、娘子を得て作る歌一首 并せて短歌 笠朝臣金村 546 三香の原 旅の宿りに 玉桙の 道の行き逢ひに 天雲の 外のみ見つつ 言とはむ よしのなければ 心のみ 咽せつつあるに 天地の 神言寄せて 敷栲の 衣手交へて 己妻と 頼める今夜 秋の夜は 百夜の長さ ありこせぬかも 反歌 547 天雲の 外に見しより 我妹子に 心も身さへ 寄りにしものを 548 今夜の 早く明けなば すべをなみ 秋の百夜を 願ひつるかも 五年戊辰に、大宰少弐石川足人朝臣が遷任するに、筑前の国蘆城の駅家に餞する歌三首 549 天地の 神も助けよ 草枕 旅行く君が 家にいたるまで 550 大船の 思ひ頼みし 君がいなば 我れは恋ひむな 直に逢ふまでに 551 大和道の 島の浦みに 寄する波 間もなけむ 我が恋ひまくは 右の三首は、作者いまだ詳らかにあらず。 大伴宿禰三依が歌一首 552 我が君は わけをば死ねと 思へかも 逢ふ夜逢はぬ夜 二走るらむ 丹生女王、大宰帥大伴卿に贈る歌二首 553 天雲の そくへの極み 遠けども 心し行けば 恋ふるものかも 554 古人の たまへしめたる 吉備の酒 病めばすべなし 貫簀賜らむ 大宰帥大伴卿、大弐丹比県守卿が民部卿に遷任するに贈る歌一首 555 君がため 醸みし待酒 安の野に ひとりや飲まむ 友なしにして ☆故地 賀茂女王、大伴宿禰三依に贈る歌一首 故左大臣長屋王が女なり 556 筑紫船 いまだも来ねば あらかじめ 荒ぶる君を 見るが悲しさ 土師宿禰水道、筑紫より京に上る海道にして作る歌二首 557 大船を 漕ぎの進みに 岩に触れ 覆らば覆れ 妹によりては 558 ちはやぶる 神の社に 我が懸けし 幣は賜らむ 妹に逢はなくに 大宰大監大伴宿禰百代が恋の歌四首 559 事もなく 生き来しものを 老いなみに かかる恋にも 我れは逢へるかも 560 恋ひ死なむ 後は何せむ 生ける日の ためこそ妹を 見まく欲りすれ 561 思はぬを 思ふと言はば 大野なる 御笠の社の 神し知らさむ ☆故地 562 暇なく 人の眉根を いたづらに 掻かしめつつも 逢はぬ妹かも 大伴坂上郎女が歌二首 563 黒髪に 白髪交り 老ゆるまで かかる恋には いまだ逢はなくに 564 山菅の 実ならぬことを 我れに寄せ 言はれし君は 誰れとか寝らむ ☆花 賀茂女王が歌一首 565 大伴の 見つとは言はじ あかねさし 照れる月夜に 直に逢へりとも ☆花 大宰大監大伴宿禰百代ら、駅使に贈る歌二首 566 草枕 旅行く君を 愛しみ たぐひてぞ来し 志賀の浜辺を 右の一首は大監大伴宿禰百代。 567 周防にある 岩国山を 越えむ日は 手向けよくせよ 荒しその道 右の一首は少典山口忌寸若麻呂
以前に天平の二年庚午の夏の六月に、師大伴卿たちまちに瘡を脚に生し、枕席に疾み苦しぶ。これによりて駅を馳せて上奏し、庶弟稲公、姪胡麻呂に遺言を語らまく欲りすと望み請ふ。右兵庫助大伴宿禰稲公、治部少丞大伴宿禰胡麻呂の両人に勅して、駅を賜ひて発遣し、卿の病を省しめたまふ。しかるに、数旬を経て幸く平復すること得たり。時に、稲公ら、病のすでに療えたるをもちて、府を発ちて京に上る。ここに大監大伴宿禰百代、少典山口忌寸若麻呂、また卿の男家持ら、駅使を相送りてともに夷守の駅家に到り、いささかに飲みて別れを悲しび、すなはちこの歌を作る。 ☆故地 大宰帥大伴卿、大納言に任けらえて京に入る時に臨み、府の官人ら、卿を筑前の国蘆城の駅家に餞する歌四首 ☆故地 568 み崎みの 荒磯に寄する 五百重波 立ちても居ても 我が思へる君 右の一首は筑前掾門部連石足。 569 韓人の 衣染むといふ 紫の 心に染みて 思ほゆるかも 570 大和へ 君が発つ日の 近づけば 野に立つ鹿も 響めてぞ鳴く 右の二首は大典麻田連陽春。 571 月夜よし 川の音清し いざここに 行くも行かぬも 遊びて行かむ 右の一首は防人佑大伴四綱。
大宰帥大伴卿が京に上りし後に、沙弥満誓、大伴卿に贈る歌二首 572 まそ鏡 見飽かぬ君に 後れてや 朝夕に さびつつ居らむ 573 ぬばたまの 黒髪変り 白けても 痛き恋には 逢ふ時ありけり 大納言大伴卿が和ふる歌二首 574 ここにありて 筑紫やいづち 白雲の たなびく山の 方にしあるらし 575 草香江の 入江にあさる 葦鶴の あなたづたづし 友なしにして ☆花 大宰帥大伴卿が京に上りし後に、筑後守葛井連大成が悲嘆しびて作る歌一首 576 今よりは 城の山道は 寂しけむ 我が通はむと 思ひしものを ☆故地 大納言大伴卿、新袍を摂津大夫高安王に贈る歌一首 577 我が衣 人にな着せそ 網引する 難波壮士の 手には触るとも 大伴宿禰三依が別れを悲しぶる歌一首 578 天地と ともに久しく 住まはむと 思ひてあるし 家の庭はも 余明軍、大伴宿禰家持に与ふる歌二首 明軍は大納言卿が資人なり 579 見まつりて いまだ時だに 変らねば 年月のごと 思ほゆる君 580 あしひきの 山に生ひたる 菅の根の ねもころ見まく 欲しき君かも
大伴坂上家の大嬢、大伴宿禰家持に報へ贈る歌四首 581 生きてあらば 見まくも知らず 何しかも 死なむよ妹と 夢に見えつる 582 ますらをも かく恋ひけるを たわめやの 恋ふる心に たぐひあらめやも 583 月草の うつろひやすく 思へかも 我が思ふ人の 言も告げ来ぬ ☆花 584 春日山 朝立つ雲の 居ぬ日なく 見まくの欲しき 君にもあるかも 大伴坂上郎女が歌一首 585 出でていなむ 時しはあらむを ことさらに 妻恋しつつ 立ちていぬべしや 大伴宿禰稲公、田村大嬢に贈る歌一首 大伴宿奈麻呂卿が女なり 586 相見ずは 恋ひずあらましを 妹を見て もとなかくのみ 恋ひばいかにせむ 右の一首は、姉坂上郎女が作なり。 笠女郎、大伴宿禰家持に贈る歌二十四首 587 我が形見 見つつ偲はせ あらたまの 年の緒長く 我れも思はむ 588 白鳥の 飛羽山松の 待ちつつぞ 我が恋ひわたる この月ごろを 589 衣手を 打廻の里に ある我れを 知らにぞ人は 待てど来ずける 590 あらたまの 年の経ぬれば 今しはと ゆめよ我が背子 我が名告らすな 591 我が思ひを 人に知るれか 玉櫛笥 開きあけつと 夢にし見ゆる 592 闇の夜に 鳴くなる鶴の 外のみに 聞きつつかあらむ 逢ふとはなしに 593 君に恋ひ いたもすべなみ 奈良山の 小松が下に 立ち嘆くかも 594 我がやどの 夕蔭草の 白露の 消ぬがにもとな 思ほゆるかも 595 我が命の 全けむ限り 忘れめや いや日に異には 思ひ増すとも 596 八百日行く 浜の真砂も 我が恋に あにまさらじか 沖つ島守 597 うつせみの 人目を繁み 石橋の 間近き君に 恋ひわたるかも 598 恋にもぞ 人は死にする 水無瀬川 下ゆ我れ痩す 月に日に異に 599 朝霧の おほに相見し 人故に 命死ぬべく 恋ひわたるかも 600 伊勢の海の 磯もとどろに 寄する波 畏き人に 恋ひわたるかも 601 心ゆも 我は思はずき 山川も 隔たらなくに かく恋ひむとは 602 夕されば 物思ひまさる 見し人の 言とふ姿 面影にして 603 思ひにし 死にするものに あらませば 千たびぞ我れは 死にかへらまし 604 剣大刀 身に取り添ふと 夢に見つ 何の兆ぞも 君に逢はむため 605 天地の 神に理 なくはこそ 我が思ふ君に 逢はず死にせめ 606 我れも思ふ 人もな忘れ 多奈和丹 浦吹く風の やむ時なかれ 607 皆人を 寝よとの鐘は 打つなれど 君をし思へば 寐ねかてぬかも 608 相思はぬ 人を思ふは 大寺の 餓鬼の後方に 額つくごとし 609 心ゆも 我は思はずき またさらに 我が故郷に 帰り来むとは 610 近くあれば 見ねどもあるを いや遠く 君がいまさば 有りかつましじ 右の二首は、相別れて後に、さらに来贈る 大伴宿禰家持が和ふる歌二首 611 今さらに 妹に逢はめやと 思へかも ここだ我が胸 いぶせくあるらむ 612 なかなかに 黙もあらましを 何すとか 相見そめけむ 遂げざらまくに 山口女王、大伴宿禰家持に贈る歌五首 613 物思ふと 人に見えじと なまじひに 常に思へり ありぞかねつる 614 相思はぬ 人をやもとな 白栲の 袖漬つまでに 音のみしなくも 615 我が背子は 相思はずとも 敷栲の 君が枕は 夢に見えこそ 616 剣大刀 名の惜しけくも 我れはなし 君に逢はずて 年の経ぬれば 617 葦辺より 満ち来る潮の いや増しに 思へか君が 忘れかねつる 大神女郎、大伴宿禰家持に贈る歌一首 618 さ夜中に 友呼ぶ千鳥 物思ふと わびをる時に 鳴きつつもとな |