巻五 815〜883

梅花(ばいくわ)の歌三十二首 并せて序   故地 

天平二年の正月の十三日に、帥老(そちのおきな)(いへ)(あつ)まりて、宴会を()ぶ。時に、初春の令月(れいげつ)にして、気()く風(やはら)ぐ。梅は鏡前(けいぜん)(ふん)(ひら)く、(らん)珮後(はいご)(かう)(くゆ)らす。しかのみにあらず、(あした)の嶺に雲移り、松は(うすもの)を掛けて(きぬがさ)(かたぶ)く、(ゆうへ)(くき)に霧結び、鳥は(うすもの)()ぢらえて林に(まと)ふ。庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。ここに、(あめ)(やね)にし(つち)(しきゐ)にし、(ひざ)(ちかづ)(さかづき)を飛ばす。(げん)を一室の(うち)に忘れ、(きん)煙霞(えんか)の外に開く。淡然(たんぜん)自ら(ゆる)し、快然(くわいぜん)自ら足る。もし翰苑(かんゑん)にあらずは、何をもちてか(こころ)()べむ。詩に落梅(らくばい)(へん)(しる)す、古今それ何ぞ(こと)ならむ。よろしく園梅(ゑんばい)()して、いささかに短詠(たんえい)を成すべ( )

815 正月(むつき)立ち 春の(きた)らば かくしこそ (うめ)()きつつ (たの)しき()へめ  大弐紀z(だいにきのまへつきみ)
816 (うめ)の花 今咲けるごと 散り過ぎず ()()(その)に ありこせぬかも  少弐小野大夫(せうにをののまへつきみ)
817 (うめ)の花 咲きたる園の 青柳(あをやぎ)は かづらにすべく なりにけらずや  少弐粟田大夫(せうにあはたのまへつきみ)   
818 春されば まづ咲くやどの (うめ)の花 ひとり見つつや (はる)()暮らさむ  筑前守(つくしのみちのくちのかみ)山上大夫(やまのうへのまへつきみ)
819 世の中は 恋(しげ)しゑや かくしあらば (うめ)の花にも ならましものを  豊後守(とよくにのみちのしりのかみ)大伴大夫(おほとものまへつきみ)
820 (うめ)の花 今盛りなり 思ふどち かざしにしてな 今盛りなり  筑後守(つくしのみちのしりのかみ)葛井大夫(ふぢゐのまへつきみ)
821 青柳(あをやなぎ) (うめ)との花を 折りかざし 飲みての(のち)は 散りぬともよし  笠沙弥(かさのさみ)
822 我が園に (うめ)の花散る ひさかたの (あめ)より雪の 流れ()るかも  主人
823 (うめ)の花 散らくはいづく しかすがに この()の山に 雪は降りつつ  大監伴氏百代(だいげんばんじのももよ)   故地
824 (うめ)の花 散らまく惜しみ 我が園の 竹の林に うぐひす鳴くも  少監阿氏奥島(せうげんあじのおきしま)
825 (うめ)の花 咲きたる園の 青柳(あをやぎ)を かづらにしつつ 遊び暮らさな  少監土氏百村(せうげんとじのももむら)
826 うち(なび)く 春の(やなぎ)と 我がやどの (うめ)の花とを いかにか()かむ  大典史氏大原(だいてんしじのおほはら)
827 春されば ()(ぬれ)(がく)りて うぐひすぞ 鳴きて()ぬなる (うめ)(しづ)()  少典山氏若麻呂(せうてんさんじのわかまろ)
828 人ごとに 折りかざしつつ 遊べども いやめづらしき (うめ)の花かも  大判事丹氏麻呂(だいはんじたんじのまろ)
829 (うめ)の花 咲きて散りなば 桜花(さくらばな) ()ぎて咲くべく なりにてあらずや  薬師張氏福子(くすりしちやうじのふくし)   
830 万代(よろづよ)に 年は()()とも (うめ)の花 絶ゆることなく 咲きわたるべし  筑前介(つくしのみちのくちのすけ)佐氏子首(さじのこおびと)
831 春なれば うべも咲きたる (うめ)の花 君を思ふと ()()()なくに  壱岐守(いきのかみ)板氏安麻呂(はんじのやすまろ)
832 (うめ)の花 折りてかざせる (もろ)(ひと)は 今日(けふ)(あひだ)は 楽しくあるべし  神司荒氏稲布(かむつかさくわうじのいなしき)
833 年のはに 春の(きた)らば かくしこそ (うめ)をかざして 楽しく飲まめ  大令史野氏宿奈麻呂(だいりやうしやじのすくなまろ)
834 (うめ)の花 今盛りなり 百鳥(ももとり)の 声の恋しき 春(きた)るらし  少令史田氏肥人(せうりやうしでんじのこまひと)
835 春さらば 逢はむと思ひし (うめ)の花 今日(けふ)の遊びに (あひ)()つるかも  薬師高氏義通(くすりしかうじのよしみち)
836 (うめ)の花 ()()りかざして 遊べども ()()らぬ日は 今日(けふ)にしありけり  陰陽師磯氏法麻呂(おんやうしぎじののりまろ)
837 春の野に 鳴くやうぐひす なつけむと ()()の園に (うめ)が花咲く  算師志氏大道(さんししじのおほみち)
838 (うめ)の花 散り(まが)ひたる (をか)びには うぐひす鳴くも 春かたまけて  大隈目榎氏鉢麻呂(おほすみのさくわんかじのもひまろ)
839 春の野に 霧立ちわたり 降る雪と 人の見るまで (うめ)の花散る  筑前目(つくしのみちのくちのさくわん)田氏真上(でんじのまかみ)
840 (はる)(やなぎ) かづらに折りし (うめ)の花 ()れか浮かべし (さか)(づき)()に  壱岐目(いきのさくわん)村氏彼方(そんじのをちかた)
841 うぐひすの (おと)聞くなへに (うめ)の花 我家(わぎへ)の園に 咲きて散るみゆ  対馬目(つしまのさくわん)高氏老(かうじのおゆ)
842 我がやどの (うめ)(しづ)()に 遊びつつ うぐひす鳴くも 散らまく惜しみ  薩摩目(さつまのさくわん)高氏海人(かうじのあま)
843 (うめ)の花 折りかざしつつ (もろ)(ひと)の 遊ぶを見れば 都しぞ思ふ  土師氏御道(はにしうぢのみみち)
844 (いも)()に 雪かも降ると 見るまでに ここだもまがふ (うめ)の花かも  小野氏国堅(をのうぢのくにかた)
845 うぐひすの 待ちかてにせし (うめ)が花 散らずありこそ 思ふ子がため  筑前掾(つくしのみちのくちのじよう)門氏石足(もんじのいそたり)
846 (かすみ)立つ 長き(はる)()を かざせれど いやなつかしき (うめ)の花かも  小野氏淡理(をのうぢのたもり)

員外(ゐんぐわい)、故郷を思ふ歌両首
847 我が(さか)り いたくくたちぬ 雲に飛ぶ (くすり)()むとも またをちめやも
848 雲に飛ぶ (くすり)()むよは 都見ば いやしき()が身 またをちぬべし

(のち)に梅の歌に(つい)()する四首
849 残りたる 雪に(まじ)れる (うめ)の花 早くな散りそ 雪は()ぬとも
850 雪の色を (うば)ひて咲ける (うめ)の花 今盛りなり 見む人もがも
851 我がやどに 盛りに咲ける (うめ)の花 散るべくなりぬ 見む人もがも
852 (うめ)の花 (いめ)に語らく みやびたる 花と()()ふ 酒に()かべこそ

松浦(まつら)(かは)に遊ぶ序   故地

(われ)、たまさかに松浦(まつら)(あがた)()きて逍遥(せうえう)し、いささかに玉島(たましま)(ふち)に臨みて遊覧するに、たちまちに(うを)()娘子(をとめ)らに()ひぬ。(くわ)(よう)(なら)びなく、(くわう)()(たぐ)ひなし。(りう)(えふ)(まよ)(うち)(ひら)き、(たう)(くわ)(ほほ)(うへ)(ひら)く。意気(いき)は雲を(しの)ぎ、風流は世に(すぐ)れたり。(われ)、問ひて「()(さと)()(いへ)の子らぞ、けだし(しん)(せん)にあらむか」といふ。娘子ら、みな()み答へて「()()は漁夫の(いへ)の児、草庵の(いや)しき者なり。(さと)もなく(いへ)もなし。何ぞ(なの)り云ふに足らむ。ただ(ひととなり)水に便(なら)ひ、また(こころ)山を楽しぶ。あるいは(らく)()に臨みて、いたづらに(ぎょく)(ぎょ)(とも)しぶ、あるいは()(かふ)()して、(むな)しく(えん)()を望む。今たまさかに(うま)(ひと)相遇()ひ、()応に()へず、すなはち(くわん)(きょく)()ぶ。今より(のち)に、あに(かい)(らう)にあらざるべけむ」といふ。()()(こた)へて「唯々(をを)(つつし)みて芳命を(うけたま)はらむ」といふ。時に、日は山の西に落ち、()()()なむとす。つひに懐抱(くわいはう)()べ、よりて(えい)()を贈りて()はく、


853 あさりする ()()の子どもと 人は言へど 見るに知らえぬ (うま)(ひと)の子と

答ふる詩に()はく、
854 玉島(たましま)の この川上(かはかみ)に 家はあれど 君を(やさ)しみ あらはさずありき

(ほう)(かく)のさらに贈る歌三首
855 松浦(まつら)(かは) 川の瀬光り (あゆ)()ると 立たせる(いも)が ()(すそ)()れぬ
856 松浦(まつら)なる 玉島(たましま)(かは)に (あゆ)()ると 立たせる子らが (いへ)()知らずも
857 遠つ人 松浦の川に (わか)()()る (いも)手本(たもと)を ()れこそまかめ

娘子らがさらに(こた)ふる歌三首
858 若鮎釣る 松浦の川の 川なみの (なみ)にし()はば 我れ恋ひめやも
859 春されば (わぎ)()の里の (かは)()には (あゆ)()(ばし)る 君待ちがてに
860 松浦川 (なな)()(よど)は 淀むとも ()れは淀まず 君をし待たむ

後人の(つい)()する詩三首 師老(そちのおきな)
861 松浦(まつうら)川 川の瀬早み (くれなゐ)の ()(すそ)()れて (あゆ)か釣るらむ
862 (ひと)(みな)の 見らむ松浦の 玉島を 見ずてや我れは 恋ひつつ()らむ
863 松浦川 玉島の浦に 若鮎釣る (いも)らを見らむ 人の(とも)しさ

(よろし)(けい)す。
伏して四月(うづき)の六日の賜書(ししょ)(うけたま)はる。(ひざまづ)きて封函(ほうかん)を開き、(をろが)みて芳藻(ほうさう)を読む。心神の開朗(かいらう)にあること、泰初(たいしょ)が月を(むだ)くがごとし、鄙懐(ひくわい)除?(ぢよきよ)せらゆること、楽広(がくくわう)が天を(ひら)くがごとし。辺城(へんじやう)羈旅(きりよ)し、古旧(こきう)(おも)ひて志を(いた)ましめ、年矢(ねんし)(とど)まらず、平生(へいぜい)(おも)ひて(なみた)を落すがごときに至りては、ただし、達人(たつじん)(ならび)(やす)みし、君子は(うれ)へなし。伏して(ねが)はくは、(あした)には懐?(くわいてき)(うつくしび)()べ、(ゆふへ)には放亀(ほうき)(みち)(とど)め、(ちやう)(てう)を百代に(かま)へ、(しよう)(けう)を千歳に追ひたまはむことを。(さら)垂示(すいじ)を奉はるに、梅苑(ばいゑん)芳席(はうせき)に、群英(ぐんえい)(あや)?()べ、松浦(しようほ)玉潭(ぎよくたん)に、仙媛(せんゑん)(こたへ)を贈りたるは、杏壇(きやうだん)各言(かくげん)(さく)(たぐ)ひ、衡皐(かうかう)税駕(せいか)(へん)(なそ)ふ。耽読(たんどく)吟諷(ぎんぷう)し、戚謝(せきしや)歓怡(くわんい)す。(よろし)が、(ぬし)に恋ふる(まこと)、誠犬馬に()え、徳を仰ぐ心、心葵?(きくわく)に同じ。しかれども、碧海(へきかい)地を(わか)ち、白雲(はくうん)天を(へだ)つ。いたづらに傾延(けいえん)を積み、いかにしてか労緒(らうしよ)を慰めむ。孟秋節(まうしうせち)(あた)る。伏して願はくは、万祐(ばんいう)日に(あら)たにあらむことを。今し相撲部領使(すまいのことりつかひ)()せ、謹みて片紙(へんし)を付く。 宜 謹啓 不次(ふし)

諸人(しよじん)の梅花の歌に(こた)(まつ)る一首

864 (おく)()て (なが)(こひ)せずは ()(その)()の (うめ)の花にも ならましものを

松浦(しようほ)(せん)(ゑん)の歌に(こた)ふる一首
865 君を待つ 松浦(まつら)の浦の 娘子(をとめ)らは 常世(とこよ)の国の 海人(あま)娘子(をとめ)かも

君を思ふこと尽きずして、(かさ)ねて(しる)す二首
866 はろはろに 思ほゆるかも 白雲(しらくも)の 千重(ちへ)(へだ)てる 筑紫(つくし)の国は
867 君が行き ()長くなりぬ 奈良(なら)()なる ()()木立(こだち)も (かむ)さびにけり
天平二年七月十日

(おく)() 誠惶頓首(せいくわうとんしゅ) (つつし)みて(けい)す。 憶良、聞くに、「方岳(はうがく)諸候(しょこう)都督刺史(ととくしし)、ともに典法(てんぱふ)によりて部下を巡行し、その風俗を()る」と。意内(いない)多端(たたん)にして、口外に()だすこと(かた)し。謹みて三首の鄙歌(ひか)をもちて、五蔵(ござう)鬱結(うつけつ)(のぞ)かむと(おも)ふ。その歌に()はく、
868 松浦(まつら)(がた) ()()(ひめ)の子が 領巾(ひれ)振りし 山の名のみや 聞きつつ()らむ
869 足姫(たらしひめ) 神の(みこと)の ()()らすと み立たしせりし 石を()れ見き
870 (もも)()しも ()かぬ松浦(まつら)() 今日(けふ)行きて 明日(あす)()なむを (なに)(さや)れる
天平二年七月十一日 筑前国司山上憶良 謹上

大伴佐提比古郎子(おほとものさてひこのいらつこ)、ひとり朝命を(かぶ)り、使(つかひ)藩国(はんこく)(うけたま)はる。艤棹(ふなよそひ)してここに()き、やくやくに蒼波(さうは)(おもぶ)く。(せふ)松浦(まつら)佐用姫(さよひめ)、かく別れの(やす)きことを(なげ)き、かく会ひの(かた)きことを(なげ)く。すなはち高き山の(みね)に登り、()()く船を遥望(えうばう)し、悵然(ちやうぜん)(きも)()ち、黯然(あんぜん)(たま)()つ。つひに領巾(ひれ)を脱ぎて()る。(かたはら)(ひと)(なみだ)を流さずといふことなし。よりてこの山を(なづ)けて、領巾麾(ひれふり)(みね)といふ。すなはち、歌を作りて曰はく、   故地
871 遠つ人 松浦(まつら)()()(ひめ) (つま)()ひに 領巾(ひれ)振りしより 負へる山の名

後人の追和(ついわ)
872 山の名と 言ひ継げとかも 佐用姫(さよひめ)が この山の()に 領巾(ひれ)を振りけむ

最後人の追和
873 万代(よろづよ)に 語り継げとし この(たけ)に 領巾(ひれ)振りけらし 松浦(まつら)()()

()最最後人の追和二首
874 海原(うなはら)の 沖行く船を 帰れとか 領巾(ひれ)振らしけむ 松浦(まつら)()()(ひめ)
875 行く船を 振り(とど)みかね いかばかり 恋しくありけむ 松浦(まつら)()()(ひめ)

(しょ)殿(でん)にして餞酒(せんしゅ)する日の倭歌(やまとうた)四首
876 (あま)飛ぶや 鳥にもがもや 都まで 送りまをして 飛び帰るもの
877 ひともねの うらぶれ()るに 龍田(たつた)(やま) ()()(ちか)づかば 忘らしなむか
878 言ひつつも (のち)こそ知らめ とのしくも (さぶ)しけめやも 君いまさずして
879 万代(よろづよ)に いましたまひて (あめ)(した) (まを)したまはね 朝廷(みかど)去らずて

()へて私懐(しくわい)()ぶる歌三首
880 天離(あまざか)る (ひな)五年(いつとせ) 住まひつつ 都のてぶり 忘らえにけり
881 かくのみや 息づき()らむ あらたまの ()()()く年の 限り知らずて
882 ()(ぬし)の ()(たま)(たま)ひて 春さらば 奈良の都に ()()げたまはね
天平二年十二月六日 筑前国司山上憶良 謹上

三島王(みしまのおほきみ)(のち)松浦佐用姫(まつらさよひめ)の歌に追和する一首
883 (おと)に聞き 目にはいまだ見ず ()()(ひめ)が 領巾(ひれ)振りきとふ 君松浦山(まつらやま)

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