大伴君熊凝が歌二首 大典麻田陽春作 884 国遠み 道の長手を おほほしく 今日や過ぎなむ 言どひもなく 885 朝露の 消やすき我が身 他国に 過ぎかてぬかも 親の目を欲り
熊凝のためにその志を述ぶる歌に敬和する六首 并せて序 筑前国守山上憶良
大伴君熊凝は、肥後の国益城の郡の人なり。年十八歳にして、天平三年の六月の十七日をもちて、相撲使某国司官位姓名の従人となり、京都に参ゐ向ふ。天に幸はひせらえず、路に在りて疾を獲、すなはち安芸の国佐伯の郡高庭の駅家にして身故りぬ。臨終る時に、長嘆息して曰はく、「伝へ聞くに、『仮合の身は滅びやすく、泡沫の命は駐めかたし』と。このゆゑに、千聖もすでに去り、百賢も留まらず。いはむや凡愚の微しき者、いかにしてかよく逃れ避らむ。ただし、我が老いたる親、ともに庵室に在す。我れを待ちて日を過ぐさば、自らに傷心の恨みあらむ、我れを望みて時に違はば、かならず喪明の泣を致さむ。哀しきかも我が父、痛きかも我が母。一身の死に向ふ途は患へず、ただ二親の生に在す苦しびを悲しぶるのみ。今日長に別れなば、いづれの世にか覲ゆること得む」というふ。すなはち歌六首を作りて死ぬ。その歌に曰はく、 886 うちひさす 宮へ上ると たらちしや 母が手離れ 常知らぬ 国の奥処を 百重山 越えて過ぎ行き いつしかも 都を見むと 思ひつつ 語らひ居れど おのが身し 労はしければ 玉桙の 道の隈みに 草手折り 柴取り敷きて 床じもの うち臥い伏して 思ひつつ 嘆き伏せらく 国にあらば 父とり見まし 家にあらば 母とり見まし 世間は かくのみならし 犬じもの 道に伏してや 命過ぎなむ 887 たらちしの 母が目見ずて おほほしく いづち向きてか 我が別るらむ 888 常知らぬ 道の長手を くれくれと いかにか行かむ 糧はなしに 889 家にありて 母がとり見ば 慰むる 心はあらまし 死なば死ぬとも 890 出でて行きし 日を数へつつ 今日今日と 我を待たすらむ 父母らはも 891 一世には ふたたび見えぬ 父母を 置きてや長く 我が別れなむ 貧窮問答の歌一首 并せて短歌 892 風交り 雨降る夜の 雨交り 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば 堅塩を とりつづしろひ 糟湯酒 うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ ひげ掻き撫でて 我れをおきて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾 引き被り 布肩衣 ありのことごと 着襲へども 寒き夜すらを 我れよりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒ゆらむ 妻子どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ この時は いかにしつつか 汝が世は渡る 天地は広しといへど 我がためは 狭くやなりぬる 日月は 明しといへど 我がためは 照りやたまはぬ 人皆か 我のみやしかる わくらばに 人とはあるを 人並に 我れも作るを 綿もなき 布肩衣の 海松のごと わわけさがれる かかふのみ 肩にうち掛け 伏廬の 曲廬の内に 直土に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲み居て 憂へさまよひ かまどには 火気吹き立てず 甑には 蜘蛛の巣かきて 飯炊く ことも忘れて ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物を 端切ると いへるがごとく しもと取る 里長が声は 寝屋処まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世間の道
893 世間を 厭しと恥しと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば
山上憶良 頓首 謹上好去好来の歌一首 反歌二首 894 神代より 言ひ伝て来らく そらみつ 大和の国は 皇神の 厳しき国 言霊の 幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人さはに 満ちてはあれども 高光る 日の大朝廷 神ながら 愛での盛りに 天の下 奏したまひし 家の子と 選びたまひて 勅旨 頂き持ちて 唐の 遠き境に 遣はされ 罷りいませ 海原の 辺にも沖にも 神づまり うしはきいます もろもろの 大御神たち 船舳に 導きまをし 天地の 大御神たち 大和の 大国御魂 ひさかたの 天のみ空ゆ 天翔り 見わたしたまひ 事終り 帰らむ日には またさらに 大御神たち 船舳に 御手うち懸けて 墨繩を 延へたるごとく あぢかをし 値嘉の崎より 大伴の 御津の浜びに 直泊てに 御船は泊てむ 障みなく 幸くいまして 早帰りませ 反歌 895 大伴の 御津の松原 かき掃きて 我れ立ち待たむ 早帰りませ 896 難波津に 御船泊てぬと 聞こえ来ば 紐解き放けて 立ち走りせむ
天平五年の三月の一日に、良が宅にして対面し。献るは三日なり。 山上憶良 謹上 大唐大使 卿 記室 沈痾自哀文 山上憶良作 ひそかにおもひみるに、朝夕山野に佃食する者すらに、なほ災害なくして世を渡ることを得、常に弓箭を執り、六斎を避けず、値へる禽獣の、大きなると小さきと、孕むと孕まぬとを論はず、ことごとに殺し食ふ、これをもちて業とする者をいふぞ。昼夜河海に釣漁する者すらに、なほ慶福ありて俗を経ることを全くす。漁夫・潜女、おのもおのも勤むるところあり、男は手に竹竿を把りて、よく波浪の上に釣り、女は腰に鑿籠を帯びて、潜きて深潭の底に採る者をいふぞ。いはんや、我れ胎生より今日までに、自ら修善の志あり、かつて作悪の心なし。諸悪莫作、諸善奉行の教へを聞くをいふぞ。このゆゑに三宝を礼拜し、日として勤めずといふことなし、毎日に誦経し、発露懺悔するぞ、百神を敬重し、夜として欠くることありといふことなし。天地の諸神等を敬拜することをいふぞ。ああしきかも、我れ何の罪を犯してかこの重き疾に遭へる。いまだ、過去に造れる罪か、もしは現前に犯せる過なるかを知らず、罪過を犯すことなくは、何ぞこの病を獲むといふ。初め痾に沈みしより已来、年月やくやくに多し。十餘年を経たることをいふ。是時年七十有四。鬢髪斑白にして、筋力羸なり。ただに年老いたるのみにあらず、またこの病を加ふ。諺に曰はく、「痛き瘡は塩を灌き、短き材は端を截る」といふは、この謂ひなり。四支動かず、百節みな疼み、身体はなはだ重きこと、鈞石を負へるがごとし。二十四銖を一両となし、十六両を一斤となし、三十斤を一鈞となし、四鈞を一石となす。合せて一百二十斤なり。布に懸かりて立たむと欲へば、折翼の鳥のごとし、杖に倚りて歩まむとすれば、跛足の驢のごとし。吾れ、身はすでに俗を穿ち、心も塵に累ふをもちて、禍の伏すところ、祟の隠るるところを知らむと欲ひ、亀卜の門、巫祝の室、往きて問はずといふことなし。もしは実にもあれ、もしは妄にもあれ、その教ふるところに随ひて、幣帛を奉り、祈祷らずといふことなし。しかれどもいよよ増苦あり、かつて減差なし。我れ聞くに、「前の代に、多く良医ありて、蒼生の病患を救療す。楡柎、扁鵲、華他、秦の和、緩、葛稚川、陶隠居、張仲景らのごときに至りては、みな世に在りつる良医にして、除愈さずといふことなし」と。扁鵲、姓は秦、字は越人、勃海郡の人なり。胸を割き心を採り、易へて置き、投るるに神薬をもちてすれば、すなはち寤めて平のごときぞ。華他、字は元化、沛国のの人なり。もし病の結積沈重して内にある者あれば。腸を刳りて病を取り、縫復して膏を摩る、四五日にして差ゆ、件の医を追ひ望むとも、あへて及ぶところにあらじ。もし聖医神薬に逢はば、仰ぎて願はくは、五蔵を割り刳き、百病を抄り探り、膏肓の?処に尋ね逹り、盲は鬲なり。心の下を膏となす。これを攻むれど可からず。これに逹せども及ばず、薬も至らぬぞ、二豎の逃れ匿れたるを顕はさむと欲ふ。晋の景公疾めるときに、秦の医緩視て還るは、鬼に殺さゆといふべしといふことをいふぞ。命根すでに尽き、その天年を終ふるすらに、なほ哀しびとなす。聖人賢者、一切の含霊、誰れかこの道を免れめや、いかにいはむや、生録いまだ半ばにもあらねば、鬼に枉殺せらえ、顏色壮年なるに、病に横困せらゆる者はや。世に在る大患の、いづれかこれより甚だしからむ。志恠記に云はく、広平の前の大守北海の徐玄方の女、年十八歳にして死ぬ。その霊馮馬子に謂ひて『我が生録を案ふるに、寿八十余歳に当る。今妖鬼に枉殺せらえて、すでに四年を経たり』といふ。ここに馮馬子に遇ひて、すなはちさらに活くこと得たり」といふはこれなり。内教には「瞻浮州の人は寿百二十歳なり」といふ。謹みて案ふるに、この数かならずしもこれに過ぐること得ずといふにはあらず。故に寿延経には「比丘あり、名を難逹といふ。命終らむとする時に臨み、仏に詣でて寿を請ひ、すなはち十八年を延べたり」といふ。ただ善く為むる者は天地と相畢る。その寿夭は業報の招くところにして、その修き短きに随ひて半ばとなるぞ。いまだこの算にも盈たずして、たちまちに死去す。故に「いまだ半ばにもあらず」といふぞ。任徴君曰はく、「病は口より入る、故に君子はその飲食を節す」よいふ。これによりて言へば、人の疾病に遇ふは、かならずしも妖鬼にあらず。それ、医方諸家の広説、飲食禁忌の厚訓、知易行難の鈍情の三つは、目に盈ち、耳に滿つこと、由来久しきぞ。抱朴子には「人はただその死なむとする日を知らず、故に憂へぬのみ。もしまことに羽?して期を延ぶること得べきを知らば、かならずこれをなさむ」といふ。ここをもちて観れば、すなはち知りぬ、我が病はけだし飲食の招くところにして、自ら治むること能はぬものかといふことを。帛公略説には「伏して思ひ自ら励むに、この長生をもちてす。生は貪るべし、死は畏るべし」といふ。天地の大徳を生といふ。故に死にたる人は生ける鼠にだに及かず。王侯なりといへども、一日気を絶たば、積める金山のごとくにありとも、誰れか富めりとなさむ、威き勢海のごとくにありとも、誰れか貴しとなさむ。遊仙窟には「九泉の下の人は、一銭にだに直せず」といふ。孔子曰はく、「これを天に受けて、変易すべからぬものは形なり、これを命に受けて、請益すべからぬものは寿なり」といふ。鬼谷先生の相人書に見ゆ。故に知りぬ、生の極めて貴く、命の至りて重しといふことを。言はむと欲へども言窮まる、何をもちてか言はむ、慮らむと欲へども慮絶ゆ、何によりてか慮らむ。おもひみるに、人、賢愚となく、世、古今となく、ことごとく嗟歎す。歳月競ひ流れて、昼夜も息まず、曾子曰はく、「往きて反らぬは年なり」といふ。宣尼が臨川の嘆きもこれなり。老疾相催して、朝夕に侵し動く。一代の懽楽、いまだ席前にも尽きねば、魏文の時賢を惜しむ詩には「いまだ西苑の夜をも尽さねば、にはかに北?の塵と作る」といふぞ。千年の愁苦、さらに座後に継ぐ。古詩には「人生百に滿たず、何ぞ千年の憂へを懐かむ」といふぞ。もしそれ群生品類、みな有尽の身をもちて、ともに無窮の命を求めずといふことなし。このゆゑに、道人方士の、自ら丹経を負ひ名山に入りて薬を合するは、性を養ひ神を怡びしめて、長生を求むるぞ。抱朴子に曰はく「神農云はく、『百病愈えず、いかにしてか長生すること得む』といふ」と。帛公また曰はく、「生は好き物なり、死は悪しき物なり」といふ。もし不幸にして長生すること得ずは、なほ生涯病患なき者をもちて、福はひ大きなりと為さむか。今し吾れ、病に悩まさえ、臥坐すること得ず。かにかくに、為すところを知ることなし。福はひなきことの至りて甚だしき、すべて我れに集まる。「人願へば天従ふ」と。もし実にあらば、仰ぎて願はくは、たちまちにこの病を除き、さきはひに平のごとくなること得む。鼠をもちて喩へと為す、あに愧ぢずあらめやも。すでに上に見ゆ。 俗道の仮合即離し、去りやすく留めかたきことを悲歎しぶる詩一首 并せて序
ひそかにおもひみるに、釈・慈の示教は、 釈氏・慈氏をいふ すでにして三帰 仏・法・僧に帰依することをいふ 五戒を開きて、法界を化く、 一に不殺生、二に不偸盗、三に不邪婬、四に不妄語、五に不飲酒をいふ 周・孔の垂訓は、すでにして三綱 君臣・父子・夫婦をいふ 五教を張りて、邦国を済ふ。 父は義に、母は慈に、兄は友に、弟は順に、子は孝にあることをいふ 故に知りぬ、引導は二つなれども、得悟はただ一つのみなることを。ただし、世に恒質なし、このゆゑに陵谷も更変す、人に定期なし、このゆゑに寿夭も同しからず。撃目の間に、百齢すでに尽く、申臂の頃に、千代も空し。旦には席上の主となり、夕には泉下の客となる。白馬走り来るとも、黄泉には何にか及かむ。隴上の青松は、空しく信剣を懸く、野中の白楊は、ただに悲風に吹かゆるのみ。ここに知りぬ、世俗にはもとより隠遁の室なく、原野にはただ長夜の台のみありといふことを。先聖すでに去り、後賢も留まらず。もし贖ひて免るべきことあらば、古人誰れか値の金なけむ。独り存へて、つひに世の終を見る者ありといふことを聞かず。このゆゑに、維摩大士は玉体を方丈に疾ましめ、釈迦能仁は金容を双樹に掩したまへり。内教には「黒闇の後より来むことを欲はずは、徳天の先に至るを入るることなかれ」といふ。 徳天は生なり、黒闇は死なり 故に知りぬ、生るればかならず死ありといふことを。死をもし欲はずは、生れぬにしかず。いはむや、たとひ始終の恒数を覚るとも、何ぞ存亡の大期を慮らむ。 俗道の変化は撃目のごとし、人事の経紀は申臂のごとし。空しく浮雲と大虚を行き、心力ともに尽きて寄るところなし。
老身に病を重ね、経年辛苦し、さらに児等を思ふ歌七首 長一首 短六首 897 たまきはる うちの限りは 平らけく 安くもあらむを 事もなく 喪なくもあらむを 世間の 厭けく辛けく いとのきて 痛き瘡には 辛塩を 注くちふがごとく ますますも 重き馬荷に 表荷打つと いふことのごと 老いにてある 我が身の上に 病をと 加へてあれば 昼はも 嘆かひ暮らし 夜はも 息づき明かし 年長く 病みしわたれば 月重ね 憂へさまよひ ことことは 死ななと思へど 五月蠅なす 騒く子どもを 打棄てては 死には知らず 見つつあれば 心は燃えぬ かにかくに 思ひ煩ひ 音のみに泣かゆ 反歌 898 慰むる 心はなしに 雲隠り 鳴き行く鳥の 音のみし泣かゆ 899 すべもなく 苦しくあれば 出で走り 去ななと思へど こらに障りぬ 900 富人の 家の子どもの 着る身なみ 腐し捨つらむ 絹綿らはも 901 荒栲の 布衣をだに 着せかてに かくや嘆かむ 為むすべをなみ 902 水沫なす もろき命も 栲綱の 千尋にもがと 願ひ暮らしつ 903 しつたまき 数にもあらぬ 身にはあれど 千年にもがと 思ほゆるかも
去にし神亀二年に作る。ただし類をもちての故に、さらにここに載す 天平五年の六月丙申の朔にして三日戊戌に作る
男子名は古日に恋ふる歌三首 長一首 短二首 904 世の人の 貴び願ふ 七種の 宝も我れは 何せむに 我が中の 生れ出でたる 白玉の 我が子古日は 明星の 明くる朝は 敷栲の 床の辺去らず 立てれども 居れども ともに戯れ 夕星の 夕になれば いざ寝よと 手をたづさはり 父母も うへはなさかり さきくさの 中にを寝むと 愛しく しが語らへば いつしかも 人と成り出でて あしけくも よけくも見むと 大船の 思ひ頼むに 思はぬに 横しま風の にふふかに 覆ひ来れば 為むすべの たどきを知らに 白栲の たすきを懸け まそ鏡 手に取り持ちて 天つ神 仰ぎ祈ひみ 国つ神 伏して額つき かからずも 神のまにまにと 立ちあざり 我れ祈ひめど しましくも よけくはなしに やくやくに かたちくづほり 朝な朝な 言ふことやみ たまきはる 命絶えぬれ 立ち躍り 足すり叫び 伏し仰ぎ 胸打ち嘆き 手に持てる 我が子飛ばしつ 世間の道 ☆花 反歌 905 若ければ 道行き知らじ 賄はせむ 黄泉の使 負ひて通らせ 906 布施置きて 我れを祈ひむ あざむかず 直に率行きて 天道知らしめ
右の一首は、作者いまだ詳らかにあらず。ただし、裁歌の体、山上の操に似たるをもちて、この次に載す。 |