秋相聞
額田王、近江天皇を思ひて作る歌一首 1606 君待つと 我が恋ひ居れば 我がやどの 簾動かし 秋の風吹く
鏡王女が作る歌一首 1607 風をだに 恋ふるは羨し 風をだに 来むとし待たば 何か嘆かむ 弓削皇子の御歌一首 1608 秋萩の 上に置きたる 白露の 消かもしなまし 恋ひつつあらずは ☆花 丹比真人が歌一首 1609 宇陀の野の 秋萩しのぎ 鳴く鹿も 妻に恋ふらく 我れには増さじ 丹生女王、大宰帥大伴卿に贈る歌一首 1610 高円の 秋野の上の なでしこの花 うら若み 人のかざしし なでしこの花 ☆故地 ☆花 笠縫女王が歌一首 六人部王が女。母を田形皇女といふ 1611 あしひきの 山下響め 鳴く鹿の 言ともしかも 我が心夫 石川賀係女郎が歌一首 1612 神さぶと いなにはあらず 秋草の 結びし紐を 解くは悲しも 賀茂女王が歌一首 長屋王が女。母を阿倍朝臣といふ 1613 秋の野を 朝行く鹿の 跡もなく 思ひし君に 逢へる今夜か 右の歌は、或いは「倉橋部女王が作」といふ。或いは「笠縫女王が作」といふ。
遠江守桜井王、天皇に奉る歌一首 1614 九月の その初雁の 使にも 思ふ心は 聞こえ来ぬかも 天皇の報和へ賜ふ御歌一首 1615 大の浦の その長浜に 寄する波 ゆたけく君を 思ふこのころ 大の浦は遠江の国の海浜の名なり
笠女郎、大伴宿禰家持に贈る歌一首 1616 朝ごとに 我が見るやどの なでしこの 花にも君は ありこせぬかも 山口女王、大伴宿禰家持に贈る歌 1617 秋萩に 置きたる露の 風吹きて 落つる涙は 留めかねつも 湯原王、娘子に贈る歌一首 1618 玉に貫き 消たず賜らむ 秋萩の 末わくらばに 置ける白露 大伴家持、姑坂上郎女が竹田の庄に至りて作る歌一首 1619 玉桙の 道は遠けど はしきやし 妹を相見に 出でてぞ我が来し 大伴坂上郎女が和ふる歌一首 1620 あらたまの 月立つまでに 来まさねば 夢にし見つつ 思ひぞ我がせし 右の二首は、天平十一年己卯の秋の八月に作る。
巫部麻蘇娘子が歌一首 1621 我がやどの 萩花咲けり 見に来ませ いま二日だみ あらば散りなむ 大伴田村大嬢、妹坂上大嬢に与ふる歌二首 1622 我がやどの 秋の萩咲く 夕影に 今も見てしか 妹が姿を 1623 我がやどに もみつかへるて 見るごとに 妹を懸けつつ 恋ひぬ日はなし ☆花 坂上大嬢、秋稲の縵を大伴宿禰家持に贈る歌一首 1624 我が蒔ける 早稲田の穂立 作りたる かづらぞ見つつ 偲はせ我が背 ☆花 大伴宿禰家持が報へ贈る歌一首 1625 我妹子が 業と作れる 秋の田の 早稲穂のかづら 見れど飽かぬかも また、身に着る衣を脱きて家持に贈るに報ふる歌一首 1626 秋風の 寒きこのころ 下に着む 妹が形見と かつも偲はむ 右の三首は、天平十一年己卯の秋の九月に往来す。
大伴宿禰家持、時じき藤の花、并せて萩の黄葉の二つの物を攀ぢて、坂上大嬢に贈る歌二首 1627 我がやどの ときじき藤の めづらしく 今も見てしか 妹が笑まひを ☆花 1628 我がやどの 萩の下葉は 秋風も いまだ吹かねば かくぞもみてる 右の二首は、天平十二年庚辰の夏の六月に往来す。
大伴宿禰家持、坂上大嬢に贈る歌一首 并せて短歌 1629 ねもころに 物を思へば 言はむすべ 為むすべもなし 妹と我れは 手たづさはりて 朝には 庭に出で立ち 夕には 床うち掃ひ 白栲の 袖さし交へて さ寝し夜や 常にあるける あしひきの 山鳥こそば 峰向ひに 妻どひすといへ うつせみの 人なる我れや 何すとか 一日一夜も 離り居て 嘆き恋ふらむ ここ思へば 胸こそ痛き そこ故に 心なぐやと 高円の 山にも野にも うち行きて 遊びあるけど 花のみ にほひてあれば 見るごとに まして偲はゆ いかにして 忘れむものぞ 恋といふものを ☆故地 反歌 1630 高円の 野辺のかほ花 面影に 見えつつ妹は 忘れかねつも ☆花 大伴宿禰家持、安倍女郎に贈る歌一首 1631 今造る 久邇の都に 秋の夜の 長きにひとり 寝るが苦しさ ☆故地 大伴宿禰家持、久邇の京より、寧楽の宅に留まれる坂上大嬢に贈る歌一首 1632 あしひきの 山辺に居りて 秋風の 日に異に吹けば 妹をしぞ思ふ 或者、尼に贈る歌二首 1633 手もすまに 植ゑし萩にや かへりては 見れども飽かず 心尽さむ 1634 衣手に 水渋付くまで 植ゑし田を 引板我が延へ まもれる苦し 尼、頭句を作り、并せて大伴宿禰家持、尼に誂へらえて末句を続ぎ、等しく和ふる歌一首 1635 佐保川の 水を堰き上げて 植ゑし田を 尼作る 刈れる初飯は ひとりなるべし 家持続ぐ ☆故地
冬雑歌
舎人娘子が雪の歌一首 1636 大口の 真神の原に 降る雪は いたくな降りそ 家もあらなくに 太上天皇の御製歌一首 1637 はだすすき 尾花逆葺き 黒木もち 造れる室は 万代までに ☆花 天皇の御製歌一首 1638 あをによし 奈良の山なる 黒木もち 造れる室は 座せど飽かぬかも 右は、聞くに「左大臣長屋王が佐保の宅に御在して肆宴したまふときの御製」と。
大宰帥大伴卿、冬の日に雪を見て、京を憶ふ歌一首 1639 沫雪の ほどろほどろに 降りしけば 奈良の都し 思ほゆるかも 大宰帥大伴卿が梅の歌一首 1640 わが岡に 盛りに咲ける 梅の花 残れる雪を まがへつるかも ☆花 角朝臣広弁が雪梅の歌一首 1641 沫雪に 降らえて咲ける 梅の花 君がり遣らば よそへてむかも 安倍朝臣奥道が雪の歌一首 1642 たな霧らひ 雪も降らぬか 梅の花 咲かぬが代に そへてだに見む 若桜部朝臣君足が雪の歌一首 1643 天霧らし 雪も降らぬか いちしろく このいつ柴に 降らまくを見む 三野連石守が梅の歌一首 1644 引き攀ぢて 折らば散るべみ 梅の花 袖に扱入れつ 染まば染むとも 巨勢朝臣宿奈麻呂が雪の歌一首 1645 我がやどの 冬木の上に 降る雪を 梅の花かと うち見つるかも 小治田朝臣東麻呂が雪の歌一首 1646 ぬばたまの 今夜の雪に いざ濡れな 明けむ朝に 消なば惜しけむ 忌部首黒麻呂が雪の歌一首 1647 梅の花 枝にか散ると 見るまでに 風に乱れて 雪ぞ降り来る 紀小鹿女郎が梅の歌一首 1648 十二月には 沫雪降ると 知らねかも 梅の花咲く ふふめらずして 大伴宿禰家持が雪梅の歌一首 1649 今日降りし 雪に競ひて 我がやどの 冬木の梅は 花咲きにけり 西の池の辺に御在して、肆宴したまふときの歌一首 1650 池の辺の 松の末葉に 降る雪は 五百重降りしけ 明日さへも見む 右の一首は、作者いまだ詳らかにあらず。ただし、豎子安倍朝臣虫麻呂伝誦す。
大伴坂上郎女が歌一首 1651 沫雪の このころ継ぎて かく降らば 梅の初花 散りか過ぎなむ 他田広津娘子が梅の歌一首 1652 梅の花 折りも折らずも 見つれども 今夜の花に なほしかずけり 県犬養娘子、梅に寄せて思ひを発す歌一首 1653 今のごと 心を常に 思へらば まづ咲く花の 地に落ちめやも 大伴坂上郎女が雪の歌一首 1654 松蔭の 浅茅の上の 白雪を 消たずて置かむ ことはかもなき ☆花 冬相聞
三国真人人足が歌一首 1655 高山の 菅の葉しのぎ 降る雪の 消ぬと言ふべくも 恋の繁けく 大伴坂上郎女が歌一首 1656 酒坏に 梅の花浮かべ 思ふどち 飲みての後は 散りぬともよし 和ふる歌一首 1657 官にも 許したまへり 今夜のみ 飲まむ酒かも 散りこすなゆめ 右は、酒は官に禁制して「京中の閭里、集宴すること得ず。ただし、親々一二飲楽することは聴許す」といふ。これによりて和ふる人この発句を作る。
藤皇后、天皇に奉る御歌一首 1658 我が背子と ふたり見ませば いくばくか この降る雪の 嬉しくあらまし 他田広津娘子が歌一首 1659 真木の上に 降り置ける雪の しくしくも 思ほゆるかも さ夜問へ我が背 大伴宿禰駿河麻呂が歌一首 1660 梅の花 散らすあらしの 音のみに 聞きし我妹を 見らくしよしも 紀小鹿女郎が歌一首 1661 ひさかたの 月夜を清み 梅の花 心開けて 我が思へる君 大伴田村大嬢、妹坂上大嬢に与ふる歌一首 1662 沫雪の 消ぬべきものを 今までに ながらへぬるは 妹に逢はむとぞ 大伴宿禰家持が歌一首 1663 沫雪の 庭に降りしき 寒き夜を 手枕まかず ひとりかも寝む |