萬葉集 巻第十
春雑歌
1812 ひさかたの 天の香具山 この夕 霞たなびく 春立つらしも ☆故地 1813 巻向の 檜原に立てる 春霞 おほにし思はば なづみ来めやも ☆故地 1814 いにしへの 人の植ゑけむ 杉が枝に 霞たなびく 春は来ぬらし 1815 子らが手を 巻向山に 春されば 木の葉しのぎて 霞たなびく ☆故地 1816 玉かぎる 夕さり来れば さつ人の 弓月が岳に 霞たなびく ☆故地 1817 今朝行きて 明日には来ねと 言ひし子を 朝妻山に 霞たなびく ☆故地 1818 子らが名に 懸けのよろしき 朝妻の 片山崖に 霞たなびく
右は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。 鳥を詠む 1819 うち靡く 春立ちぬらし 我が門の 柳の末に うぐひす鳴きつ 1820 梅の花 咲ける岡辺に 家居れば 乏しくもあらず うぐひすの声 ☆花 1821 春霞 流るるなへに 青柳の 枝くひ持ちて うぐひす鳴くも ☆花 1822 我が背子を 莫越の山の 呼子鳥 君呼び返せ 夜の更けぬとに 1823 朝ゐでに 来鳴く貌鳥 汝れだにも 君に恋ふれや 時終へず鳴く 1824 冬ごもり 春さり来れば あしひきの 山にも野にも うぐひす鳴くも 1825 紫草の 根延ふ横野の 春野には 君を懸けつつ うぐひす鳴くも 1826 春されば 妻を求むと うぐひすの 木末を伝ひ 鳴きつつもとな 1827 春日なる 羽がひの山ゆ 佐保の内へ 鳴き行くなるは 誰れ呼子鳥 1828 答へぬに な呼び響めそ 呼子鳥 佐保の山辺を 上り下りに 1829 梓弓 春山近く 家居れば 継ぎて聞くらむ うぐひすの声 1830 うち靡く 春さり来れば 小竹の末に 尾羽打ち触れて うぐひす鳴くも 1831 朝霧に しののに濡れて 呼子鳥 三船の山ゆ 鳴き渡るみゆ 雪を詠む 1832 うち靡く 春さり来れば しかすがに 天雲霧らひ 雪は降りつつ 1833 梅の花 降り覆ふ雪を 包み持ち 君に見せむと 取れば消につつ 1834 梅の花 咲き散り過ぎぬ しかすがに 白雪庭に 降りしきりつつ 1835 今さらに 雪降らめやも かぎろひの 燃ゆる春へと なりにしものを 1836 風交り 雪は降りつつ しかすがに 霞たなびき 春さりにけり 1837 山の際に うぐひす鳴きて うち靡く 春と思へど 雪降りしきぬ 1838 峰の上に 降り置ける雪し 風の共 ここに散るらし 春にはあれども 右の一首は、筑波山にして作る。 1839 君がため 山田の沢に ゑぐ摘むと 雪消の水に 裳の裾濡れぬ ☆花 1840 梅が枝に 鳴きて移ろふ うぐひすの 羽白栲に 沫雪ぞ降る 1841 山高み 降り来る雪を 梅の花 散りかも来ると 思ひつるかも 1842 雪をおきて 梅をな恋ひそ あしひきの 山片付きて 家居せる君 右の二首は、問答。
霞を詠む 1843 昨日こそ 年は果てしか 春霞 春日の山に 早立ちにけり 1844 冬過ぎて 春来るらし 朝日さす 春日の山に 霞たなびく 1845 うぐひすの 春になるらし 春日山 霞たなびく 夜目に見れども 柳を詠む ☆花 1846 霜枯れの 冬の柳は 見る人の かづらにすべく 萌えにけるかも 1847 浅緑 染め懸けたりと 見るまでに 春の柳は 萌えにけるかも 1848 山の際に 雪は降りつつ しかすがに この川楊は 萌えにけるかも ☆花 1849 山の際の 雪は消ざるを みなぎらふ 川の楊は 萌えにけるかも 1850 朝な朝な 我が見る柳 うぐひすの 来居て鳴くべく 茂に早なれ 1851 青柳の 糸のくはしさ 春風に 乱れぬい間に 見せむ子もがも 1852 ももしきの 大宮人の かづらける しだり柳は 見れど飽かぬかも 1853 梅の花 取り持ち見れば 我がやどの 柳の眉し 思ほゆるかも 花を詠む 1854 うぐひすの 木伝ふ梅の うつろへば 桜の花の 時かたまけぬ 1855 桜花 時は過ぎねど 見る人の 恋ふる盛りと 今し散るらむ ☆花 1856 我がかざす 柳の糸を 吹き乱る 風にか妹が 梅の散るらむ 1857 年のはに 梅は咲けども うつせみの 世の人我れし 春なかりけり 1858 うつたへに 鳥は食まねど 縄延へて 守らまく欲しき 梅の花かも 1859 馬並めて 多賀の山辺を 白栲に にほはしたるは 梅の花かも 1860 花咲きて 実はならねども 長き日に 思ほゆるかも 山吹の花 ☆花 1861 能登川の 水底さへに 照るまでに 御笠の山は 咲きにけるかも 1862 雪みれば いまだ冬なり しかすがに 春霞立ち 梅は散りつつ 1863 去年咲きし 久木今咲く いたづらに 地にか落ちむ 見る人なしに ☆花 1864 あしひきの 山の際照らす 桜花 この春雨に 散りゆかむかも 1865 うち靡く 春さり来らし 山の際の 遠き木末の 咲きゆく見れば 1866 雉鳴く 高円の辺に 桜花 散りて流らふ 見む人もがも ☆故地 1867 阿保山の 桜の花は 今日もかも 散り乱ふらむ 見る人なしに 1868 かはづ鳴く 吉野の川の 滝の上の 馬酔木の花ぞ はしに置くなゆめ ☆花 1869 春雨に 争ひかねて 我がやどの 桜の花は 咲きそめにけり 1870 春雨は いたくな降りそ 桜花 いまだ見なくに 散らまく惜しも 1871 春されば 散らまく惜しき 梅の花 しましは咲かず ふふみてもがも 1872 見わたせば 春日の野辺に 霞立ち 咲きにほへるは 桜花かも 1873 いつしかも この夜の明けむ うぐひすの 木伝ひ散らず 梅の花見む 月を詠む 1874 春霞 たなびく今日の 夕月夜 清く照るらむ 高松の野に 1875 春されば 木の暗多み 夕月夜 おほつかなしも 山蔭にして 1876 朝霞 春日の暮は 木の間より 移ろふ月を いつとか待たむ 雨を詠む 1877 春の雨に ありけるものを 立ち隠り 妹が家道に この日暮らしつ 川を詠む 1878 今行きて 聞くものにもが 明日香川 春雨降りて たぎつ瀬の音を 煙を詠む 1879 春日野に 煙立つみゆ 娘子らし 春野のうはぎ 摘みて煮らしも ☆花 野遊 1880 春日野の 浅茅が上に 思ふどち 遊ぶ今日の日 忘らえめやも ☆花 1881 春霞 立つ春日野を 行き返り 我れは相見む いや年のはに 1882 春の野に 心延べむと 思ふどち 来し今日の日は 暮れずもあらぬか 1883 ももしきの 大宮人は 暇あれや 梅をかざして ここに集へる 歎旧 1884 冬過ぎて 春し来れば 年月は 新たなれども 人は古りゆく 1885 物皆は 新たしきよし ただしくも 人は古りにし よろしかるべし 懽逢 1886 住吉の 里行きしかば 春花の いやめづらしき 君に逢へるかも 旋頭歌 1887 春日なる 御笠の山に 月も出でぬかも 佐紀山に 咲ける桜の 花の見ゆべく 1888 白雪の 常敷く冬は 過ぎにけらしも 春霞 たなびく野辺の うぐひす鳴くも 譬喩歌 1889 我がやどの 毛桃の下に 月夜さし 下心よし うたてこのころ ☆花 春相聞 1890 春山の 友うぐひすの 泣き別れ 帰ります間も 思ほせ我れを 1891 冬こもり 春咲く花を 手折り持ち 千たびの限り 恋ひわたるかも 1892 春山の 霧に惑へる うぐひすも 我れにまさりて 物思はめやも 1893 出でて見る 向ひの岡に 本茂く 咲きたる花の ならずはやまじ 1894 霞立つ 春の長日を 恋ひ暮らし 夜も更けゆくに 妹も逢はぬかも 1895 春されば まづさきくさの 幸くあらば 後にも逢はむ な恋ひそ我妹 ☆花 1896 春されば しだり柳の とををにも 妹は心に 乗りにけるかも ☆花 右は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。 鳥に寄する 1897 春されば もずの草ぐき 見えずとも 我れは見やらむ 君があたりをば 1898 貌鳥の 間なくしば鳴く 春の野の 草根の繁き 恋もするかも花に寄する 1899 春されば 卯の花ぐたし 我が越えし 妹が垣間は 荒れにけるかも ☆花 1900 梅の花 咲き散る園に 我れ行かむ 君が使を 片待ちがてり 1901 藤波の 咲く春の野に 延ふ葛の 下よし恋ひば 久しくもあらむ ☆花 ☆花 1902 春の野に 霞たなびき 咲く花の かくなるまでに 逢はぬ君かも 1903 我が背子に 我が恋ふらくは 奥山の 馬酔木の花の 今盛りなり 1904 梅の花 しだり柳に 折り交へ 花に供へば 君に逢はむかも 1905 をみなへし 佐紀野に生ふる 白つつじ 知らぬこともち 言はれし我が背 ☆花 ☆花 1906 梅の花 我れは散らさじ あをによし 奈良なる人も 来つつ見るがね 1907 かくしあらば 何か植ゑけむ 山吹の やむ時もなく 恋ふらく思へば ☆花 霜に寄する 1908 春されば 水草の上に 置く霜の 消につつも我れは 恋ひわたるかも 霞に寄する 1909 春霞 山にたなびき おほほしく 妹を相見て 後恋ひむかも 1910 春霞 立ちにし日より 今日までに 我が恋やまず 本の繁けば 1911 さ丹つらふ 妹を思ふと 霞立つ 春日もくれに 恋ひわたるかも 1912 たまきはる 我が山の上に 立つ霞 立つとも居とも 君がまにまに 1913 見わたせば 春日の野辺に 立つ霞 見まくの欲しき 君が姿か 1914 恋ひつつも 今日は暮らしつ 霞立つ 明日の春日を いかに暮らさむ 雨に寄する 1915 我が背子に 恋ひてすべなみ 春雨の 降るわき知らず 出でて来しかも 1916 今さらに 君はい行かじ 春雨の 心を人の 知らずあらなくに 1917 春雨に 衣はいたく 通らめや 七日し降らば 七日来じとや 1918 梅の花 散らす春雨 いたく降る 旅にや君が 盧りせるらむ 草に寄する 1919 国栖らが 春菜摘むらむ 司馬の野の しばしば君を 思ふこのころ 1920 春草の 繁き我が恋 大海の 辺に行く波の 千重に積もりぬ 1921 おほほしく 君を相見て 菅の根の 長き春日を 恋ひわたるかも 松に寄する 1922 梅の花 咲きて散りなば 我妹子を 来むか来じかと 我が松の木ぞ 雲に寄する 1923 白真弓 今春山に 行く雲の 行きや別れむ 恋しきものを ☆花 縵を贈る 1924 ますらをの 伏し居嘆きて 作りたる しだり柳の かづらせ我妹 悲別 1925 朝戸出の 君が姿を よく見ずて 長き春日を 恋ひや暮らさむ 問答 1926 春山の 馬酔木の花の 悪しからぬ 君にはしゑや 寄そるともよし 1927 石上 布留の神杉 神びにし 我れやさらさら 恋にあひにける ☆故地 右の一首は、春の歌にあらねども、なほ和するをもちてのゆゑに、この次に載す。 1928 さのかたは 実にならずとも 花のみに 咲きて見えこそ 恋のなぐさに ☆花 1929 さのかたは 実になりにしを 今さらに 春雨降りて 花咲かめやも 1930 梓弓 引津の辺なる なのりその 花咲くまでに 逢はぬ君かも 1931 川の上の いつ藻の花の いつもいつも 来ませ我が背子 時じけめやも 1932 春雨の やまず降る降る 我が恋ふる 人の目すらを 相見せなくに 1933 我妹子に 恋ひつつ居れば 春雨の それも知るごと やまず降りつつ 1934 相思はぬ 妹をやもとな 菅の根の 長き春日を 思ひ暮らさむ 1935 春されば まづ鳴く鳥の うぐひすの 言先立ちし 君をし待たむ 1936 相思はず あるらむ子ゆゑ 玉の緒の 長き春日を 思ひ暮らさく |