正述心緒
2517 たらちねの 母に障らば いたづらに 汝も我れも 事のなるべき 2518 我妹子が 我れを送ると 白栲の 袖漬つまでに 泣きし思ほゆ 2519 奥山の 真木の板戸を 押し開き しゑや出で来ね 後は何せむ 2520 刈り薦の 一重を敷きて さ寝れども 君とし寝れば 寒けくもなし 2521 かきつはた 丹つらふ君を いささめに 思ひ出でつつ 嘆きつるかも ☆花 2522 恨めしと 思ふさなはに ありしかば 外のみぞ見し 心は思へど 2523 さ丹つらふ 色には出でず すくなくも 心のうちに 我が思はなくに 2524 我が背子に 直に逢はばこそ 名は立ため 言の通ひに 何かそこゆゑ 2525 ねもころに 片思すれか このころの 我が心どの 生けるともなき 2526 待つらむに 至らば妹が 嬉しみと 笑まむ姿を 行きて早見む 2527 誰れそこの 我がやど来呼ぶ たらちねの 母に嘖はえ 物思ふ我れを 2528 さ寝ぬ夜は 千夜にもありとも 我が背子が 思ひ悔ゆべき 心は持たじ 2529 家人は 道もしみみに 通へども 我が待つ妹が 使来ぬかも 2530 あらたまの 伎倍の竹垣 網目ゆも 妹し見えなば 我れ恋ひめやも 2531 我が背子が その名告らじと たまきはる 命は捨てつ 忘れたまふな 2532 おほならば 誰が見むとかも ぬばたまの 我が黒髪を 靡けて居らむ 2533 面忘れ いかなる人の するものぞ 我れはしかねつ 継ぎてし思へば 2534 相思はぬ 人のゆゑにか あらたまの 年の緒長く 我が恋ひ居らむ 2535 おほろかの 心は思はじ 我がゆゑに 人に言痛く 言はれしものを 2536 息の緒に 妹をし思へば 年月の 行くらむ別も 思ほえぬかも 2537 たらちねの 母に知らえず 我が持てる 心はよしゑ 君がまにまに 2538 ひとり寝と 薦朽ちめやも 綾席 緒になるまでに 君をし待たむ 2539 相見ては 千年やいぬる いなをかも 我れやしか思ふ 君待ちかてに 2540 振分けの 髪を短み 青草を 髪にたくらむ 妹をしぞ思ふ 2541 た廻り 行箕の里に 妹を置きて 心空にあり 地は踏めども 2542 若草の 新手枕を まきそめて 夜をや隔てむ 憎くあらなくに 2543 我が恋ふる ことも語らひ 慰めむ 君が使を 待ちやかねてむ 2544 うつつには 逢ふよしもなし 夢にだに 間なく見え君 恋に死ぬべし 2545 誰そかれと 問はば答へむ すべをなみ 君が使を 帰しつるかも 2546 思はぬに 至らば妹が 嬉しみと 笑まむ眉引き 思ほゆるかも 2547 かくばかり 恋ひむものぞと 思はねば 妹が手本を まかぬ夜もありき 2548 かくだにも 我れは恋ひなむ 玉梓の 君が使を 待ちやかねてむ 2549 妹に恋ひ 我が泣く涙 敷栲の 木枕通り 袖さへ濡れぬ 2550 立ちて思ひ 居てもぞ思ふ 紅の 赤裳裾引き いにし姿を 2551 思ひにし あまりにしかば すべをなみ 出でてぞ行きし その門を見に 2552 心には 千重しくしくに 思へども 使を遣らむ すべの知らなく 2553 夢のみに 見てすらここだ 恋ふる我は うつつに見てば ましていかにあらむ 2554 相見ては 面隠さゆる ものからに 継ぎて見まくの 欲しき君かも 2555 朝戸を 早くな開けそ あぢさはふ 目が欲る君が 今夜来ませる 2556 玉垂の 小簾の垂簾を 行きかちに 寐は寝さずとも 君は通はせ 2557 たらちねの 母に申さば 君も我れも 逢ふとはなしに 年ぞ経ぬべき 2558 愛しと 思へりけらし な忘れと 結びし紐の 解くらく思へば 2559 昨日見て 今日こそ隔て 我妹子が ここだく継ぎて 見まくし欲しも 2560 人もなき 古りにし里に ある人を めぐくや君が 恋に死なする 2561 人言の 繁き間守りて 逢ふともや なほ我が上に 言の繁けむ 2562 里人の 言寄せ妻を 荒垣の 外にや我が見む 憎くあらなくに 2563 人目守る 君がまにまに 我れさへに 早く起きつつ 裳の裾濡れぬ 2564 ぬばたまの 妹が黒髪 今夜もか 我がなき床に 靡けて寝らむ 2565 花ぐはし 葦垣越しに ただ一目 相見し子ゆゑ 千たび嘆きつ ☆花 2566 色に出でて 恋ひば人見て 知りぬべし 心のうちの 隠り妻はも 2567 相見ては 恋慰むと 人は言へど 見て後にぞも 恋まさりける 2568 おほろかに 我れし思はば かくばかり 難き御門を 罷り出めやも 2569 思ふらむ その人なれや ぬばたまの 夜ごとに君が 夢にし見ゆる 2570 かくのみし 恋ひば死ぬべみ たらちねの 母にも告げつ やまず通はせ 2571 ますらをは 友の騒きに 慰もる 心もあらむ 我れぞ苦しき 2572 偽りも 似つきてぞする いつよりか 見ぬ人恋に 人の死せし 2573 心さへ 奉れる君に 何をかも 言はず言ひしと 我がぬすまはむ 2574 面忘れ だにもえすやと 手握りて 打てども懲りず 恋という奴 2575 めづらしき 君を見えとこそ 左手の 弓取る方の 眉根掻きつれ 2576 人間守り 葦垣越しに 我妹子を 相見しからに 言ぞさだ多き 2577 今だにも 目な乏しめそ 相見ずて 恋ひむ年月 久しけまくに 2578 朝寝髪 我れは梳らじ うるはしき 君が手枕 触れてしものを 2579 早行きて いつしか君を 相見むと 思ひし心 今ぞなぎぬる 2580 面形の 忘るとあらば あづきなく 男じものや 恋ひつつ居らむ 2581 言に言へば 耳にたやすし すくなくも 心のうちに 我が思はなくに 2582 あづきなく 何のたはこと 今さらに 童言する 老人にして 2583 相見ては 幾久さにも あらなくに 年月のごと 思ほゆるかも 2584 ますらをと 思へる我れを かくばかり 恋せしむるは 悪しくはありけり 2585 かくしつつ 我が待つ験 あらぬかも 世の人皆の 常にあらなくに 2586 人言を 繁みと君に 玉梓の 使も遣らず 忘ると思ふな 2587 大原の 古りにし里に 妹を置きて 我れ寐ねかねつ 夢に見えこそ 2588 夕されば 君来まさむと 待ちし夜の なごりぞ今も 寐ねかてにする 2589 相思はず 君はあるらし ぬばたまの 夢にも見えず うけひて寝れど 2590 岩根踏み 夜道行かじと 思へれど 妹によりては 忍びかねつも 2591 人言の 繁き間守ると 逢はずあらば つひにや子らが 面忘れなむ 2592 恋ひ死なむ 後は何せむ 我が命 生ける日にこそ 見まく欲りすれ 2593 敷栲の 枕響みて 寐ねらえず 物思ふ今夜 早も明けぬかも 2594 行かぬ我を 来むとか夜も 門閉さず あはれ我妹子 待ちつつあるらむ 2595 夢にだに 何かも見えぬ 見ゆれども 我れかも惑ふ 恋の繁きに 2596 慰もる 心はなしに かくのみし 恋ひやわたらむ 月に日に異に 2597 いかにして 忘れむものぞ 我妹子に 恋はまされど 忘らえなくに 2598 遠くあれど 君にぞ恋ふる 玉桙の 里人皆に 我れ恋ひめやも 2599 験なき 恋をもするか 夕されば 人の手まきて 寝らむ子ゆゑに 2600 百代しも 千代しも生きて あらめやも 我が思ふ妹を 置きて嘆かむ 2601 うつつにも 夢にも我れは 思はずき 古りたる君に ここに逢はむとは 2602 黒髪の 白髪までと 結びてし 心ひとつを 今解かめやも 2603 心をし 君に奉ると 思へれば よしこのころは 恋ひつつをあらむ 2604 思ひ出でて 音には泣くとも いちしろく 人の知るべく 嘆かすなゆめ 2605 玉桙の 道行きぶりに 思はぬに 妹を相見て 恋ふるころかも 2606 人目多み 常かくのみし さもらはば いづれの時か 我が恋ひずあらむ 2607 敷栲の 衣手離れて 我を待つと あるらむ子らは 面影に見ゆ 2608 妹が袖 別れし日より 白栲の 衣片敷き 恋ひつつぞ寝る 2609 白栲の 袖はまゆひぬ 我妹子が 家のあたりを やまず振りしに 2610 ぬばたまの 我が黒髪を 引きぬらし 乱れてさらに 恋ひわたるかも 2611 今さらに 君が手枕 まき寝めや 我が紐の緒を 解けつつもとな 2612 白栲の 袖を触れてよ 我が背子に 我が恋ふらくは やむ時もなし 2613 夕占にも 占にも告れる 今夜だに 来まさぬ君を いつとか待たむ 2614 眉根掻き 下いふかしみ 思へるに いにしへ人を 相見つるかも 或本の歌に曰はく 眉根掻き 誰れをか見むと 思ひつつ 日長く恋ひし 妹に逢へるかも 一書の歌に曰はく 眉根掻き 下いふかしみ 思へりし 妹が姿を 今日見つるかも 2615 敷栲の 枕をまきて 妹と我れと 寝る夜はなくて 年ぞ経にける 2616 奥山の 真木の板戸を 音早み 妹があたりの 霜の上に寝ぬ 2617 あしひきの 山桜戸を 開け置きて 我が待つ君を 誰れか留むる 2618 月夜よみ 妹に逢はむと 直道から 我れは来つれど 夜ぞ更けにける |