寄物陳思 2619 朝影に 我が身はなりぬ 韓衣 裾のあはずて 久しくなれば 2620 解き衣の 思ひ乱れて 恋ふれども なぞ汝がゆゑと 問ふ人もなき 2621 摺り衣 着りと夢に見つ うつつには いづれの人の 言か繁けむ 2622 志賀の海人の 塩焼き衣 なれぬれど 恋といふものは 忘れかねつも 2623 紅の 八しほの衣 朝な朝な なれはすれども いやめづらしも 2624 紅の 深染めの衣 色深く 染みにしかばか 忘れかねつる 2625 逢はなくに 夕占を問ふと 幣に置くに 我が衣手は またぞ継ぐべき 2626 古衣 打棄つる人は 秋風の 立ちくる時に 物思ふものぞ 2627 はねかづら 今する妹を うら若み 笑みみ怒りみ 付けし紐解く 2628 いにしへの 倭文機帯を 結び垂れ 誰れといふ人も 君にはまさじ 一書の歌に曰はく いにしへの 狭織の帯を 結び垂れ 誰れしの人も 君にはまさじ 2629 逢はずとも 我れは恨みじ この枕 我れと思ひて まきて寝ませ 2630 結へる紐 解かむ日遠み 敷栲の 我が木枕は 苔生しにけり 2631 ぬばたまの 黒髪敷きて 長き夜を 手枕の上に 妹待つらむか 2632 まそ鏡 直にし妹を 相見ずは 我が恋やまじ 年は経ぬとも 2633 まそ鏡 手に取り持ちて 朝な朝な 見む時さへや 恋の繁けむ 2634 里遠み 恋ひわびにけり まそ鏡 面影去らず 夢に見えこそ 右の一首は、上に柿本朝臣人麻呂が歌の中に見ゆ。ただし、句々相換れるをもちてのゆゑに、ここに載す。 2635 剣大刀 身に佩き添ふる ますらをや 恋といふものを 忍びかねてむ 2636 剣大刀 諸刃の上に 行き触れて 死にかもしなむ 恋ひつつあらずは 2637 うち鼻ひ 鼻をぞひつる 剣大刀 身に添ふ妹し 思ひけらしも 2638 梓弓 末のはら野に 鳥猟する 君が弓弦の 絶えむと思へや 2639 葛城の 襲津彦真弓 新木にも 頼めや君が 我が名告りけむ ☆故地 ☆花 2640 梓弓 引きみ緩へみ 来ずは来ず 来ば来そをなぞ 来ずは来ばそを 2641 時守の 打ち鳴す鼓 数みみれば 時にはなりぬ 逢はなくもあやし 2642 燈火の 蔭にかがよふ うつせみの 妹が笑まひし 面影に見ゆ 2643 玉桙の 道行き疲れ 稲席 しきても君を 見むよしもがも 2644 小墾田の 板田の橋の 壊れなば 桁より行かむ な恋ひそ我妹 2645 宮材引く 泉の杣に 立つ民の 休む時なく 恋ひわたるかも ☆故地 2646 住吉の 津守網引の 泛子の緒の 浮かれか行かむ 恋ひつつあらずは 2647 手作りを 空ゆ引き越し 遠みこそ 目言離るらめ 絶ゆと隔てや 2648 かにかくに 物は思はじ 飛騨人の 打つ墨繩の ただ一道に 2649 あしひきの 山田守る翁が 置く鹿火の 下焦れのみ 我が恋ひ居らく 2650 そき板もち 葺ける板目の あはざらば いかにせむとか 我が寝そめけむ 2651 難波人 葦火焚く屋の 煤してあれど おのが妻こそ 常めづらしき ☆花 2652 妹が髪 上げ竹葉野の 放れ駒 荒びにけらし 逢はなく思へば 2653 馬の音の とどともすれば 松蔭に 出でてぞ見つる けだし君かも 2654 君に恋ひ 寐ねぬ朝明に 誰が乗れる 馬の足の音ぞ 我れに聞かする 2655 紅の 裾引く道を 中に置きて 我れか通はむ 君か来まさむ 2656 天飛ぶや 軽の社の 斎ひ槻 幾代まであらむ 隠り妻ぞも 2657 神なびに ひもろき立てて 斎へども 人の心は まもりあへぬもの 2658 天雲の 八重雲隠り 鳴る神の 音のみにやも 聞きわたりなむ 2659 争へば 神も憎ます よしゑやし よそふる君が 憎くあらなくに 2660 夜並べて 君を来ませと ちはやぶる 神の社を ?まぬ日はなし 2661 霊ぢはふ 神も我れをば 打棄てこそ しゑや命の 惜しけくもなし 2662 我妹子に またも逢はむと ちはやぶる 神の社を ?まぬ目はなし 2663 ちはやぶる 神の斎垣も 越えぬべし 今は我が名の 惜しけくもなし 2664 夕月夜 暁闇の 朝影に 我が身はなりぬ 汝を思ひかねて 2665 月しあれば 明くらむわきも 知らずして 寝て我が来しを 人見けむかも 2666 妹が目の 見まく欲しけく 夕闇の 木の葉隠れる 月待つごとし 2667 真袖もち 床うち掃ひ 君待つと 居りし間に 月かたぶきぬ 2668 二上に 隠らふ月の 惜しけれど 妹が手本を 離るるこのころ ☆故地 2669 我が背子が 振り放け見つつ 嘆くらむ 清き月夜に 雲なたなびき 2670 まそ鏡 清き月夜の ゆつりなば 思ひはやまず 恋こそまさめ 2671 今夜の 有明月夜 ありつつも 君をおきては 待つ人もなし 2672 この山の 嶺に近しと 我が見つる 月の空なる 恋もするかも 2673 ぬばたまの 夜渡る月の ゆつりなば さらにや妹に 我が恋ひ居らむ 2674 朽網山 夕居る雲の 薄れゆかば 我れは恋ひなむ 君が目を欲り 2675 君が着る 御笠の山に 居る雲の 立てば継がるる 恋もするかも 2676 ひさかたの 天飛ぶ雲に ありてしか 君を相見む おつる日なしに 2677 佐保の内ゆ あらしの風の 吹きぬれば 帰りは知らに 嘆く夜ぞ多き 2678 はしきやし 吹かぬ風ゆゑ 玉櫛笥 開けてさ寝にし 我れぞ悔しき 2679 窓越しに 月おし照りて あしひきの あらし吹く夜は 君をしぞ思ふ 2680 川千鳥 住む沢の上に 立つ霧の いちしろけむな 相言ひそめてば 2681 我が背子が 使を待つと 笠も着ず 出でつつぞ見し 雨の降らくに 2682 韓衣 君にうち着せ 見まく欲り 恋ひぞ暮らしし 雨の降る日を 2683 彼方の 埴生の小屋に 小雨降り 床さへ濡れぬ 身に添へ我妹 2684 笠なみと 人には言ひて 雨障み 留まりし君が 姿し思ほゆ 2685 妹が門 行き過ぎかねつ ひさかたの 雨も降らぬか そをよしにせむ 2686 夕占問ふ 我が衣手に 置く露を 君に見せむと 取れば消につつ 2687 桜麻の 麻生の下草 露しあれば 明かしてい行け 母は知るとも 2688 待ちかねて 内には入らじ 白栲の 我が衣手に 露は置きぬとも 2689 朝露の 消やすき我が身 老いぬとも またをちかへり 君をし待たむ 2690 白栲の 我が衣手に 露は置けど 妹は逢はなく たゆたひにして 2691 かにかくに 物は思はじ 朝露の 我が身ひとつは 君がまにまに 2692 夕凝りの 霜置きにけり 朝戸出に いたくし踏みて 人に知らゆな 2693 かくばかり 恋ひつつあらずは 朝な日に 妹が踏むらむ 地にあらましを 2694 あしひきの 山鳥の尾の 一峰越え 一目見し子に 恋ふべきものか 2695 我妹子に 逢ふよしをなみ 駿河なる 富士の高嶺の 燃えつつかあらむ 2696 荒熊の 住むといふ山の 師歯迫山 責めて問ふとも 汝が名は告らじ 2697 妹が名も 我が名も立たば 惜しみこそ 富士の高嶺の 燃えつつわたれ
或歌に曰はく 君が名も 我が名も立たば 惜しみこそ 富士の高嶺の 燃えつつも居れ 2698 行きて見て 来れば恋しき 朝香潟 山越しに置きて 寐ねかてぬかも 2699 阿太人の 梁打ち渡す 瀬を早み 心は思へど 直に逢はぬかも ☆故地 2700 玉かぎる 岩垣淵の 隠りには 伏して死ぬとも 汝が名は告らじ 2701 明日香川 明日も渡らむ 石橋の 遠き心は 思ほえぬかも ☆故地 2702 明日香川 水行きまさり いや日異に 恋のまさらば ありかつましじ 2703 ま薦刈る 大野川原の 水隠りに 恋ひ来し妹が 紐解く我れは 2704 あしひきの 山下響み 行く水の 時ともなきに 恋ひわたるかも 2705 はしきやし 逢はぬ君ゆゑ いたづらに この川の瀬に 玉藻濡らしつ 2706 泊瀬川 早み早瀬を むすび上げて 飽かずや妹と 問ひし君はも ☆故地 2707 青山の 岩垣沼の 水隠りに 恋ひやわたらむ 逢ふよしをなみ 2708 しなが鳥 猪名山響に 行く水の 名のみ寄そりし 隠り妻はも 2709 我妹子に 我が恋ふらくは 水ならば しがらみ越して 行くべく思ほゆ 2710 犬上の 鳥籠の山にある 不知哉川 いさとを聞こせ 我が名告らすな ☆故地 2711 奥山の 木の葉隠りて 行く水の 音聞きしより 常忘らえず 2712 言疾くは 中は淀ませ 水無し川 絶ゆといふことを ありこすなゆめ 2713 明日香川 行く瀬を早み 早けむと 待つらむ妹を この日暮らしつ 2714 もののふの 八十宇治川の 早き瀬に 立ちえぬ恋も 我れはするかも ☆故地 2715 神なびの 打廻の崎の 岩淵の 隠りてのみや 我が恋ひ居らむ 2716 高山ゆ 出で来る水の 岩に触れ 砕けてぞ思ふ 妹に逢はぬ夜は 2717 朝東風に ゐで越す波の 外目にも 逢はぬものゆゑ 滝もとどろに 2718 高山の 岩もとたぎち 行く水の 音には立てじ 恋ひて死ぬとも 2719 隠り沼の 下に恋ふれば 飽き足らず 人に語りつ 忌むべきものを 2720 水鳥の 鴨の住む池の 下樋なみ いぶせき君を 今日見つるかも 2721 玉藻刈る ゐでのしがらみ 薄みかも 恋に淀める 我が心かも 2722 我妹子が 笠のかりての 和射見野に 我れは入りぬと 妹に告げこそ 2723 あまたあらぬ 名をしも惜しみ 埋れ木の 下ゆぞ恋ふる ゆくへ知らずて 2724 秋風の 千江の浦みの 木屑なす 心は寄りぬ 後は知らねど 2725 白真砂 御津の埴生の 色に出でて 言はなくのみぞ 我が恋ふらくは 2726 風吹かぬ 浦に波立ち なき名をも 我れは負へるか 逢ふとはなしに 2727 酢蛾島の 夏身の浦に 寄する波 間も置きて 我が思はなくに
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