萬葉集 巻第十二
正述心緒
2841 我が背子が 朝明の姿 よく見ずて 今日の間を 恋ひ暮らすかも 2842 我が心 ともしみ思ふ 新夜の 一夜もおちず 夢に見えこそ 2843 愛しと 我が思ふ妹を 人皆の 行くごと見めや 手にまかずして 2844 このころの 寐の寝らえぬは 敷栲の 手枕まきて 寝まく欲りこそ 2845 忘るやと 物語りして 心遣り 過ぐせど過ぎず なほ恋ひにけり 2846 夜も寝ず 安くもあらず 白栲の 衣は脱かじ 直に逢ふまでに 2847 後も逢はむ 我にな恋ひそと 妹は言へど 恋ふる間に 年は経につつ 2848 直に逢はず あるはうべなり 夢にだに 何しか人の 言の繁けむ 2849 ぬばたまの その夢にをし 見え継ぐや 袖干る日なく 我れは恋ふりを 2850 うつつには 直には逢はず 夢にだに 逢ふと見えこそ 我が恋ふらくに 寄物陳思 2851 人の見る 上は結びて 人の見ぬ 下紐開けて 恋ふる日ぞ多き 2852 人言の 繁き時には 我妹子し 衣なりせば 下に着ましを 2853 真玉つく をちをし兼ねて 思へこそ 一重の衣 ひとり着て寝れ 2854 白栲の 我が紐の緒の 絶えぬ間に 恋結びせむ 逢はむ日までに 2855 新治の 今作る道 さやかにも 開きてけるかも 妹が上のことを 2856 山背の 石田の社に 心おそく 手向けしたれや 妹に逢ひかたき ☆故地 2857 菅の根の ねもころごろに 照る日にも 干めや我が袖 妹に逢はずして 2858 妹に恋ひ 寐ねぬ朝に 吹く風は 妹にし触れば 我れさへに触れ 2859 明日香川 高川避きて 来しものを まこと今夜は 明けずも行かぬか 2860 八釣川 水底絶えず 行く水の 継ぎてぞ恋ふる この年ころを 2861 磯の上に 生ふる小松の 名を惜しみ 人に知らえず 恋ひわたるかも 或本の歌に曰はく 岩の上に 立てる小松の 名を惜しみ 人には言はず 恋ひわたるかも 2862 山川の 水蔭に生ふる 山菅の やまずも妹は 思ほゆるかも ☆花 2863 浅葉野に 立ち神さぶる 菅の根の ねもころ誰がゆゑ 我が恋ひなくに ☆故地 右の二十三首は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。
正述心緒
2864 我が背子を 今か今かと 待ち居るに 夜の更けゆけば 嘆きつるかも 2865 玉釧 まき寝る妹も あらばこそ 夜の長けくも 嬉しくあるべき 2866 人妻に 言ふは誰が言 さ衣の この紐解けと 言ふは誰が言 2867 かくばかり 恋ひむものぞと 知らませば その夜はゆたに あらましものを 2868 恋ひつつも 後に逢はむと 思へこそ おのが命の 長く欲りすれ 2869 今は我は 死なむよ我妹 逢はずして 思ひわたれば 安けくもなし 2870 我が背子が 来むと語りし 夜は過ぎぬ しゑやさらさら しこり来めやも 2871 人言の 讒しを聞きて 玉桙の 道にも逢はじと 言へりし我妹 2872 逢はなくも 憂しと思へば いや増しに 人言繁く 聞こえ来るかも 2873 里人も 語り継ぐがね よしゑやし 恋ひても死なむ 誰が名ならめや 2874 確かなる 使をなみと 心をぞ 使に遣りし 夢に見えきや 2875 天地に 少し至らぬ ますらをと 思ひし我れや 雄心もなき 2876 里近く 家や居るべき この我が目の 人目をしつつ 恋の繁けく 2877 いつはなも 恋ひずありとは あらねども うたてこのころ 恋し繁しも 2878 ぬばたまの 寐ねてし宵の 物思ひに 裂けにし胸は やむ時もなし 2879 み空行く 名の惜しけくも 我れはなし 逢はぬ日まねく 年の経ぬれば 2880 うつつにも 今も見てしか 夢のみに 手本まき寝と 見れば苦しも 2881 立ちて居て すべのたどきも 今はなし 妹に逢はずて 月の経ゆけば 2882 逢はずして 恋ひわたるとも 忘れめや いや日に異には 思ひ増すとも 2883 外目にも 君が姿を 見てばこそ 我が恋やまめ 命死なずは 2884 恋ひつつも 今日はあらめど 玉櫛笥 明けなむ明日を いかに暮らさむ 2885 さ夜更けて 妹を思ひ出で 敷栲の 枕もそよに 嘆きつるかも 2886 人言は まこと言痛く なりぬとも そこに障らむ 我れにあらなくに 2887 立ちて居て たどきも知らず 我が心 天つ空なり 地は踏めども 2888 世の中の 人のことばと 思ほすな まことぞ恋ひし 逢はぬ日を多み 2889 いでなぞ我が ここだく恋ふる 我妹子が 逢はじと言へる こともあらなくに 2890 ぬばたまの 夜を長みかも 我が背子が 夢に夢にし 見えかへるらむ 2891 あらたまの 年の緒長く かく恋ひば まこと我が命 全くあらめやも 2892 思ひ遣る すべのたどきも 我れはなし 逢はずてまねく 月の経ゆけば 2893 朝去にて 夕は来ます 君ゆゑに ゆゆしくも我は 嘆きつるかも 2894 聞きしより 物を思へば 我が胸は 破れて砕けて 利心もなし 2895 人言を 繁み言痛み 我妹子に 去にし月より いまだ逢はぬかも 2896 うたがたも 言ひつつもあるか 我れならば 地には落ちず 空に消なまし 2897 いかならむ 日の時にかも 我妹子が 裳引きの姿 朝に日に見む 2898 ひとり居て 恋ふれば苦し 玉たすき 懸けず忘れむ 事計りもが 2899 なかなかに 黙もあらましを あづきなく 相見そめても 我れは恋ふるか 2900 我妹子が 笑まひ眉引き 面影に かかりてもとな 思ほゆるかも 2901 あかねさす 日の暮れゆけば すべをなみ 千たび嘆きて 恋ひつつぞ居る ☆花 2902 我が恋は 夜昼わかず 百重なす 心し思へば いたもすべなし 2903 いとのきて 薄き眉根を いたづらに 掻かしめつつも 逢はぬ人かも 2904 恋ひ恋ひて 後も逢はむと 慰もる 心しなくは 生きてあらめやも 2905 いくばくも 生けらじ命を 恋ひつつぞ 我れは息づく 人には知らえず 2906 他国に よばひに行きて 大刀が緒も いまだ解かねば さ夜ぞ明けにける 2907 ますらをの 聡き心も 今はなし 恋の奴に 我れは死ぬべし 2908 常かくし 恋ふれば苦し しましくも 心休めむ 事計りせよ 2909 おほろかに 我れし思はば 人妻に ありといふ妹に 恋ひつつあらめや 2910 心には 千重に百重に 思へれど 人目を多み 妹に逢はぬかも 2911 人目多み 目こそ忍ぶれ すくなくも 心のうちに 我が思はなくに 2912 人の見て 言とがめせぬ 夢に我れ 今夜至らむ やど閉すなゆめ 2913 いつまでに 生かむ命ぞ おほかたは 恋ひつつあらずは 死ぬるまされり 2914 愛しと 思ふ我妹を 夢に見て 起きて探るに なきが寂しさ 2915 妹と言はば なめし畏し しかすがに 懸けまく欲しき 言にあるかも 2916 玉かつま 逢はむと言ふは 誰れなるか 逢へる時さへ 面隠しする 2917 うつつにか 妹が来ませる 夢にかも 我れか惑へる 恋の繁きに 2918 おほかたは 何かも恋ひむ 言挙げせず 妹に寄り寝む 年は近きを 2919 ふたりして 結びし紐を ひとりして 我れは解きみじ 直に逢ふまでは 2920 終へむ命 ここは思はず ただしくも 妹に逢はざる ことをしぞ思ふ 2921 たわや女は 同じ心に しましくも やむ時もなく 見てむとぞ思ふ 2922 夕されば 君に逢はむと 思へこそ 日の暮るらくも 嬉しくありけれ 2923 ただ今日も 君には逢はめど 人言を 繁み逢はずて 恋ひわたるかも 2924 世の中に 恋繁けむと 思はねば 君が手本を まかぬ夜もありき 2925 みどり子の ためこそ乳母は 求むと言へ 乳飲めや君が 乳母求むらむ 2926 悔しくも 老いにけるかも 我が背子が 求むる乳母に 行かましものを 2927 うらぶれて 離れにし袖を またまかば 過ぎにし恋い 乱れ来むかも 2928 おのがじし 人死にすらし 妹に恋ひ 日に異に痩せぬ 人に知らえず 2929 宵々に 我が立ち待つに けだしくも 君来まさずは 苦しかるべし 2930 生ける世に 恋といふものを 相見ねば 恋のうちにも 我れぞ苦しき 2931 思ひつつ 居れば苦しも ぬばたまの 夜に至らば 我れこそ行かめ 2932 心には 燃えて思へど うつせみの 人目を繁み 妹に逢はぬかも 2933 相思はず 君はまさめど 片恋に 我れはぞ恋ふる 君が姿に 2934 あぢさはふ 目は飽かざらね たづさはり 言とはなくも 苦しくありけり 2935 あらたまの 年の緒長く いつまでか 我が恋ひ居らむ 命知らずて 2936 今は我は 死なむよ我が背 恋すれば 一夜一日も 安けくもなし 2937 白栲の 袖折り返し 恋ふればか 妹が姿の 夢にし見ゆる 2938 人言を 繁み言痛み 我が背子を 目には見れども 逢ふよしもなし 2939 恋と言へば 薄きことなり しかれども 我れは忘れじ 恋ひは死ぬとも 2940 なかなかに 死なば安けむ 出づる日の 入るわき知らぬ 我れし苦しも 2941 思ひ遣る たどきも我れは 今はなし 妹に逢はずて 年の経ゆけば 2942 我が背子に 恋ふとにしあらし みどり子の 夜泣きをしつつ 寐ねかてなくは 2943 我が命の 長く欲しけく 偽りを よくする人を 捕ふばかりを 2944 人言を 繁みと妹に 逢はずして 心のうちに 恋ふるこのころ 2945 玉梓の 君の使を 待ちし夜の なごりぞ今も 寐ねぬ夜の多き 2946 玉桙の 道に行き逢ひて 外目にも 見ればよき子を いつとか待たむ 2947 思ひにし あまりにしかば すべをなみ 我れは言ひとき 忌むべきものを 或本の歌には 「門に出でて 我が臥い伏すを 人見けむかも」といふ。一には「すべをなみ 出でてぞ行きし 家のあたり見に」といふ。柿本朝臣人麻呂が歌集には「にほ鳥の なづさひ来しを 人見けむかも」といふ。 2948 明日の日は その門行かむ 出でて見よ 恋ひたる姿 あまたしるけむ 2949 うたて異に 心いぶせし 事計り よくせ我が背子 逢へる時だに 2950 我妹子が 夜戸出の姿 見てしより 心空なり 地は踏めども 2951 海石榴市の 八十の衢に 立ち平し 結びし紐を 解かまく惜しも 2952 我が命し 衰へぬれば 白栲の 袖のなれにし 君をしぞ思ふ 2953 君に恋ひ 我が泣く涙 白栲の 袖さへ漬ちて せむすべもなし 2954 今よりは 逢はじとすれや 白栲の 我が衣手の 干る時もなき 2955 夢かと 心惑ひぬ 月まねく 離れにし君が 言の通へば 2956 あらたまの 年月かねて ぬばたまの 夢に見えけり 君が姿は 2957 今よりは 恋ふとも妹に 逢はめやも 床の辺去らず 夢に見えこそ 2958 人の見て 言とがめせぬ 夢にだに やまず見えこそ 我が恋やまむ 2959 うつつには 言も絶えたり 夢にだに 継ぎて見えこそ 直に逢ふまでに 2960 うつせみの 現し心も 我れはなし 妹を相見ずて 年の経ゆけば 2961 うつせみの 常のことばと 思へども 継ぎてし聞けば 心惑ひぬ 2962 白栲の 袖離れて寝る ぬばたまの 今夜は早も 明けなば明けなむ 2963 白栲の 手本ゆたけく 人の寝る 味寐は寝ずや 恋ひわたりなむ |