中臣朝臣宅守、狭野弟上娘子と贈答する歌 ☆故地
3723 あしひきの 山道越えむと する君を 心に持ちて 安けくもなし 3724 君が行く 道の長手を 繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも 3725 我が背子し けだし罷らば 白栲の 袖を振らさね 見つつ偲はむ 3726 このころは 恋ひつつもあらむ 玉櫛笥 明けてをちより すべなかるべし 右の四首は、娘子、別れに臨みて作る歌。 3727 塵泥の 数にもあらぬ 我れゆゑに 思ひわぶらむ 妹がかなしさ 3728 あをによし 奈良の大道は 行きよけど この山道は 行き悪しかりけり 3729 愛しと 我が思ふ妹を 思ひつつ 行けばかもとな 行き悪しかるらむ 3730 畏みと 告らずありしを み越道の 手向けに立ちて 妹が名告りつ 右の四首は、中臣朝臣宅守、道に上りて作る歌。 3731 思ふゑに 逢ふものならば しましくも 妹が目離れて 我れ居らめやも 3732 あかねさす 昼は物思ひ ぬばたまの 夜はすがらに 音のみし泣かゆ ☆花 3733 我妹子が 形見の衣 なかりせば 何物もてか 命継がまし 3734 遠き山 関も越え来ぬ 今さらに 逢ふべきよしの なきが寂しさ 3735 思はずも まことあり得むや さ寝る夜の 夢にも妹が 見えざらなくに 3736 遠くあれば 一日一夜も 思はずて あるらむものと 思ほしめすな 3737 人よりは 妹ぞも悪しき 恋もなく あらましものを 思はしめつつ 3738 思ひつつ 寝ればかもとな ぬばたまの 一夜もおちず 夢にし見ゆる 3739 かくばかり 恋ひむとかねて 知らませば 妹をば見ずぞ あるべくありける 3740 天地の 神なきものに あらばこそ 我が思ふ妹に 逢はず死にせめ 3741 命をし 全くしあらば あり衣の ありて後にも 逢はざらめやも 3742 逢はむ日を その日と知らず 常闇に いづれの日まで 我れ恋ひ居らむ 3743 旅といへば 言にぞやすき すくなくも 妹に恋ひつつ すべなけなくに 3744 我妹子に 恋ふるに我れは たまきはる 短き命も 惜しけくもなし 右の十四首は、中臣朝臣宅守。 3745 命あらば 逢ふこともあらむ 我がゆゑに はだな思ひそ 命だに経ば 3746 人の植うる 田は植ゑまさず 今さらに 国別れして 我れはいかにせむ 3747 我がやどの 松の葉見つつ 我れ待たむ 早帰りませ 恋ひ死なぬとに 3748 他国は 住み悪しとぞ言ふ 速けく 早帰りませ 恋ひ死なぬとに 3749 他国に 君をいませて いつまでか 我が恋ひ居らむ 時の知らなく 3750 天地の 底ひのうらに 我がごとく 君に恋ふらむ 人はさねあらじ 3751 白栲の 我が下衣 失はず 持てれ我が背子 直に逢ふまでに 3752 春の日の うら悲しきに 後れ居て 君に恋ひつつ うつしけめやも 3753 逢はむ日の 形見にせよと たわや女の 思ひ乱れて 縫へる衣ぞ 右の九首は娘子。 3754 過所なしに 関飛び越ゆる ほととぎす 多我子尓毛 やまず通はむ 3755 愛しと 我が思ふ妹を 山川を 中にへなりて 安けくもなし 3756 向ひ居て 一日もおちず 見しかども 厭はぬ妹を 月わたるまで 3757 我が身こそ 関山越えて ここにあらめ 心は妹に 寄りにしものを 3758 さす竹の 大宮人は 今もかも 人なぶりのみ 好みたるらむ 3759 たちかへり 泣けども我れは 験なみ 思ひわぶれて 寝る夜しぞ多き 3760 さ寝る夜は 多くあれども 物思はず 安く寝る夜は さねなきものを 3761 世間の 常の理 かくさまに なり来にけらし すゑし種から 3762 我妹子に 逢坂山を 越えて来て 泣きつつ居れど 逢ふよしもなし ☆故地 3763 旅と言へば 言にぞやすき すべもなく 苦しき旅も 言にまさめやも 3764 山川を 中にへなりて 遠くとも 心を近く 思ほせ我妹 3765 まそ鏡 懸けて偲へと まつり出す 形見のものを 人に示すな 3766 愛しと 思ひし思はば 下紐に 結ひつけ持ちて やまず偲はせ 右の十三首は、中臣朝臣宅守。 3767 魂は 朝夕に たまふれど 我が胸痛し 恋の繁きに 3768 このころは 君を思ふと すべもなき 恋のみしつつ 音のみしぞ泣く 3769 ぬばたまの 夜見し君を 明くる朝 逢はずまにして 今ぞ悔しき 3770 味真野に 宿れる君が 帰り来む 時の迎えを いつとか待たむ 3771 宮人の 安寐も寝ずて 今日今日と 待つらむものを 見えぬ君かも 3772 帰りける 人来れりと 言ひしかば ほとほと死にき 君かと思ひて 3773 君が共 行かましものを 同じこと 後れて居れど よきこともなし 3774 我が背子が 帰り来まさむ 時のため 命残さむ 忘れたまふな 右の八首は娘子。 3775 あらたまの 年の緒長く 逢はざれど 異しき心を 我が思はなくに 3776 今日もかも 都なりせば 見まく欲り 西の御馬屋の 外に立てらまし 右の二首は、中臣朝臣宅守。 3777 昨日今日 君に逢はずて するすべの たどきを知らに 音のみしぞ泣く 3778 白栲の 我が衣手を 取り持ちて 斎へ我が背子 直に逢ふまでに 右の二首は娘子。 3779 我がやどの 花橘は いたづらに 散りか過ぐらむ 見る人なしに ☆花 3780 恋ひ死なば 恋ひも死ねとや ほととぎす 物思ふ時に 来鳴き響むる 3781 旅にして 物思ふ時に ほととぎす もとなな鳴きそ 我が恋まさる 3782 雨隠り 物思ふ時に ほととぎす 我が住む里に 来鳴き響もす 3783 旅にして 妹に恋ふれば ほととぎす 我が住む里に こよ鳴き渡る 3784 心なき 鳥にぞありける ほととぎす 物思ふ時に 鳴くべきものか 3785 ほととぎす 間しまし置け 汝が鳴けば 我が思ふ心 いたもすべなし 右の七首は、中臣朝臣宅守、花鳥に寄せ、思ひを陳べて作る歌。 |