萬葉集 巻第十八
天平二十年の春の三月の二十三日に、左大臣橘家の使者、造酒司令史田辺史福麻呂に、守大伴宿禰家持が館にして饗す。ここに新しき歌を作り、并せてすなはち古き詠を誦ひ、おのもおのも心緒を述ぶ。 4032 奈呉の海に 舟しまし貸せ 沖に出でて 波立ち来やと 見て帰り来む ☆故地 4033 波立てば 奈呉の浦みに 寄る貝の 間なき恋にぞ 年は経にける 4034 奈呉の海に 潮の早干ば あさりしに 出でむと鶴は 今ぞ鳴くなる 4035 ほととぎす いとふ時なし あやめぐさ かづらにせむ日 こゆ鳴き渡れ 右の四首は田辺史福麻呂。 時に、明日に布勢の水海に遊覧せむことを期ひ、よりて、懐を述べておのもおのも作る歌 ☆故地
4036 いかにある 布勢の浦ぞも ここだくに 君が見せむと 我れを留むる 右の一首は田辺史福麻呂。 4037 乎布の崎 漕ぎた廻り ひねもすに 見とも飽くべき 浦にあらなくに 右の一首は守大伴宿禰家持。 4038 玉櫛笥 いつしか明けむ 布勢の海の 浦を行きつつ 玉も拾はむ 4039 音のみに 聞きて目に見ぬ 布勢の浦を 見ずは上らじ 年は経ぬとも 4040 布勢の浦を 行きてし見てば ももしきの 大宮人に 語り継ぎてむ 4041 梅の花 咲き散る園に 我れ行かむ 君が使を 片待ちがてら ☆花 4042 藤波の 咲きゆく見れば ほととぎす 鳴くべき時に 近づきにけり ☆花 右の五首は田辺史福麻呂。 4043 明日の日の 布勢の浦みの 藤波に けだし来鳴かず 散らしてむかも 右の一首は、大伴宿禰家持和ふ。 前の件の十首の歌は、二十四日の宴にして作る。
二十五日に、布勢の水海に往くに、道中、馬の上にして口号ぶ二首 4044 浜辺より 我が打ち行かば 海辺より 迎へも来ぬか 海人の釣舟 4045 沖辺より 満ち来る潮の いや増しに 我が思ふ君が 御船かもかれ 水海に至りて遊覧する時に、おのもおのも懐を述べて作る歌
4046 神さぶる 垂姫の崎 漕ぎ廻り 見れども飽かず いかに我れせむ 右の一首は田辺史福麻呂。 4047 垂姫の 浦を漕ぎつつ 今日の日は 楽しく遊べ 言ひ継ぎにせむ 右の一首は遊行女婦土師。 4048 垂姫の 浦を漕ぐ舟 楫間にも 奈良の我家を 忘れて思へや 右の一首は大伴家持。 4049 おろかにぞ 我れは思ひし 乎布の浦の 荒磯の廻り 見れど飽かずけり 右の一首は田辺史福麻呂。 4050 めづらしき 君が来まさば 鳴けと言ひし 山ほととぎす 何か来鳴かぬ 右の一首は掾久米朝臣広繩。 4051 多胡の崎 木の暗茂に ほととぎす 来鳴き響めば はだ恋ひめやも 右の一首は大伴宿禰家持。 前の件の十五首の歌は、二十五日に作る。
掾久米朝臣広繩が館にして、田辺史福麻呂に饗する宴の歌四首
4052 ほととぎす 今鳴かずして 明日越えむ 山に鳴くとも 験あらめやも 右の一首は田辺史福麻呂。 4053 木の暗に なりぬるものを ほととぎす 何か来鳴かぬ 君に逢へる時 右の一首は久米朝臣広繩。 4054 ほととぎす こよ鳴き渡れ 燈火を 月夜になそへ その影も見む 4055 可敝流みの 道行かむ日は 五幡の 坂に袖振れ 我れをし思はば ☆故地 右の二首は大伴宿禰家持。 前の件の歌は、二十六日に作る。
太上皇、難波の宮に御在す時の歌七首 清足姫天皇なり 左大臣橘宿禰が歌一首 4056 堀江には 玉敷かましを 大君を 御船漕がむと かねて知りせば 御製歌一首 和 4057 玉敷かず 君が悔いて言ふ 堀江には 玉敷き満てて 継ぎて通はむ 右の二首の件の歌は、御船江を泝り遊宴する日に、左大臣が奏、并せて御製。 御製歌一首 4058 橘の とをの橘 八つ代にも 我れは忘れじ この橘を ☆花 河内女王が歌一首 4059 橘の 下照る庭に 殿建てて 酒みづきいます 我が大君かも 粟田女王が歌一首 4060 月待ちて 家には行かむ 我が挿せる 赤ら橘 影に見えつつ 右の件の歌は、左大臣橘卿が宅に在して、肆宴したまふ時の御歌、并せて奏歌。 4061 堀江より 水脈引きしつつ 御船さす 賤男のともは 川の瀬申せ 4062 夏の夜は 道たづたづし 船に乗り 川の瀬ごとに 棹さし上れ 右の件の歌は、御船綱手をもちて江を泝り、遊宴する日に作る。 伝誦する人は田辺史福麻呂ぞ。
後に橘の歌に追ひて和ふる二首 4063 常世物 この橘の いや照りに 我ご大君は 今も見るごと 4064 大君は 常磐にまさむ 橘の 殿の橘 ひた照りにして 右の二首は、大伴宿禰家持作る。 射水の郡の駅の館の屋の柱に題著す歌一首 4065 朝開き 入江漕ぐなる 楫の音の つばらつばらに 我家し思ほゆ 右の一首は、山上臣作る。名は審らかにせず。或いは憶良大夫が男といふ。ただし、その正しき名いまだ詳らかにあらず。 四月の一日に、掾久米朝臣広繩が館にして宴する歌四首
4066 卯の花の 咲く月立ちぬ ほととぎす 来鳴き響めよ ふふみたりとも ☆花 右の一首は、大伴宿禰家持作る。 4067 二上の 山に隠れる ほととぎす 今も鳴かぬか 君に聞かせむ 右の一首は、遊行女婦土師作る。 4068 居り明かしも 今夜は飲まむ ほととぎす 明けむ朝は 鳴き渡らむぞ 二日は立夏の節に応る。このゆゑに「明けむ朝は鳴かむ」といふ 右の一首は、大伴宿禰家持作る。 4069 明日よりは 継ぎて聞こえむ ほととぎす 一夜のからに 恋ひわたるかも 右の一首は、羽咋の郡の擬主帳能登臣乙美作る。 庭中の牛麦が花を詠む歌一首 4070 一本の なでしこ植ゑし その心 誰れに見せむと 思ひそめけむ ☆花 右は、先の国師の従僧清見、京師に入らむとす。よりて、飲饌を設けて饗宴す。時に、主人大伴宿禰家持、この歌詞を作り、酒を清見に送る。 4071 しなざかる 越の君らと かくしこそ 柳かづらき 楽しく遊ばめ ☆花 右は、郡司已下、子弟已上の諸人多くこの会に集ふ。よりて、守大伴宿禰家持、この歌を作る。 4072 ぬばたまの 夜渡る月を 幾夜経と 数みつつ妹は 我れ待つらむぞ 右は、この夕、月光遅に流れ、和風やくやくに扇ぐ。すなはち属目によりて、いささかにこの歌を作る。 越前の国の掾大伴宿禰池主が来贈する歌三首
今月の十四日をもちて、深見の村に到来し、その北方を望拝す。常に芳徳を念ふこと、いづれの日にか能く休まむ。兼ねて隣近にあるをもちて、たちまちに恋を増す。しかのみにあらず、先の書に云はく、「暮春惜しむべし、膝を促くることいまだ期せず」と。生別の悲しび、それまたいかにか言はむ。紙に臨みて悽断し、状を奉ること不備。 三月の十五日大伴宿禰池主
一 古人云はく 4073 月見れば 同じ国なり 山こそば 君があたりを 隔てたりけり 一 物に属きて思ひを発す 4074 桜花 今ぞ盛りと 人は言へど 我れは寂しも 君としあらねば ☆花 一 所心の歌 4075 相思はず あるらむ君を あやしくも 嘆きわたるか 人の問ふまで 越中の国の守大伴家持、報へ贈る歌四首
一 古人云はくに答ふる 4076 あしひきの 山はなくもが 月みれば 同じき里を 心隔てつ 一 属目して思ひを発すに答へ、兼ねて遷任したる旧宅の西北の隅の桜樹を詠みて云ふ 4077 我が背子が 古き垣内の 桜花 いまだふふめり 一目見に来ね 一 所心に答へ、すなはち古人の跡をもちて、今日の意を代ふる 4078 恋ふといふは えも名付けたり 言ふすべの たづきもなきは 我が身なりけり 一 さらに矚目 4079 三島野に 霞たなびき しかすがに 昨日も今日も 雪は降りつつ ☆故地 三月の十六日 姑大伴氏坂上郎女、越中の守大伴宿禰家持に来贈する歌二首 4080 常人の 恋ふといふよりは あまりにて 我れは死ぬべく なりにたらずや 4081 片思を 馬にふつまに 負ほせ持て 越辺に遣れば 人かたはむかも 越中の守大伴宿禰家持、報ふる歌 并せて所心三首 4082 天離る 鄙の奴に 天人し かく恋すらば 生ける験あり 4083 常の恋 いまだやまぬに 都より 馬に恋来ば 担ひあへむかも 別に所心一首 4084 暁に 名告り鳴くなる ほととぎす いやめづらしく 思ほゆるかも 右は、四日に使に付して京師に贈り上す。 天平感宝元年の五月の五日に、東大寺の占墾地使の僧平栄等に饗す。時に、守大伴宿禰家持、酒を僧に送る歌一首 4085 焼大刀を 礪波の関に 明日よりは 守部遣り添へ 君を留めむ ☆故地 同じ月の九日に、諸僚、少目秦伊美吉石竹が館に会ひて飲宴す。時に、主人百合の花縵三枚を造りて、豆器に畳ね置き、賓客に捧げ贈る。おのもおのもこの縵を賦して作る三首
4086 油火の 光に見ゆる 我がかづら さ百合の花の 笑まはしきかも ☆花 右の一首は守大伴宿禰家持。 4087 燈火の 光に見ゆる さ百合花 ゆりも逢はむと 思ひそめてき 右の一首は介内蔵伊美吉繩麻呂。 4088 さ百合花 ゆりも逢はむと 思へこそ 今のまさかも うるはしみすれ 右の一首は、大伴宿禰家持和ふ。 独り幄の裏に居り、遥かに霍公鳥の喧くを聞きて作る歌一首 并せて短歌
4089 高御座 天の日継と すめろきの 神の命の きこしをす 国のまほらに 山をしも さはに多みと 百鳥の 来居て鳴く声 春されば 聞きのかなしも いづれをか 別きてしのはむ 卯の花の 咲く月立てば めづらしく 鳴くほととぎす あやめぐさ 玉貫くまでに 昼暮らし 夜わたし聞けど 聞くごとに 心つごきて うち嘆き あはれの鳥と 言はぬ時なし 反歌 4090 ゆくへなく ありわたるとも ほととぎす 鳴きし渡らば かくやしのはむ 4091 卯の花の ともにし鳴けば ほととぎす いやめづらしも 名告り鳴くなへ 4092 ほととぎす いとねたけくは 橘の 花散る時に 来鳴き響むる ☆花 右の四首は、十日に大伴宿禰家持作る。 阿尾の浦に行く日に作る歌一首 4093 阿尾の浦に 寄する白波 いや増しに 立ちしき寄せ来 東風をいたみかも 右の一首は、大伴宿禰家持作る。 |