萬葉集 巻第十九
天平勝宝二年の三月の一日の暮に、春苑の桃李の花を眺矚めて作る歌二首 4139 春の園 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ娘子 ☆花 4140 我が園の 李の花か 庭に散る はだれのいまだ 残りてあるかも ☆花 翻び翔る鴫を見て作る歌一首 4141 春まけて もの悲しきに さ夜更けて 羽振き鳴く鴫 誰が田にか住む 二日に、柳黛を攀ぢて京師を思ふ歌一首 4142 春の日に 萌れる柳を 取り持ちて 見れば都の 大道し思ほゆ ☆花 堅香子草の花を攀じ折る歌一首 4143 もののふの 八十娘子らが 汲み乱ふ 寺井の上の 堅香子の花 ☆故地 ☆花 帰雁を見る歌二首 4144 燕来る 時になりぬと 雁がねは 国偲ひつつ 雲隠り鳴く 4145 春まけて かく帰るとも 秋風に もみたむ山を 越え来ずあらめや 夜の裏に、千鳥の喧くを聞く歌二首 4146 夜ぐたちに 寝覚めて居れば 川瀬尋め 心もしのに 鳴く千鳥かも 4147 夜くたちて 鳴く川千鳥 うべしこそ 昔の人も しのひきにけれ 暁に鳴く雉を聞く歌二首 4148 杉の野に さ躍る雉 いちしろく 音にしも泣かむ 隠り妻かも 4149 あしひきの 八つ峰の雉 鳴き響む 朝明の霞 見れば悲しも 遥かに、江を泝る舟人の唱ふを聞く歌一首 4150 朝床に 聞けば遥けし 射水川 朝漕ぎしつつ 唱ふ舟人 三日に、守大伴宿禰家持が館にして宴する歌三首 4151 今日のため と思ひて標めし あしひきの 峰の上の桜 かく咲きにけり ☆花 4152 奥山の 八つ峰の椿 つばらかに 今日は暮らさね ますらをの伴 4153 漢人も 筏浮かべて 遊ぶといふ 今日ぞ我が背子 花かづらせな 八日に、白き大鷹を詠む歌一首 并せて短歌 4154 あしひきの 山坂越えて 行きかはる 年の緒長く しなざかる 越にし住めば 大君の 敷きます国は 都をもここも同じと 心には 思ふものから 語り放け 見放くる人目 乏しみと 思ひし繁し そこゆゑに 心なぐやと 秋づけば 萩咲きにほふ 石瀬野に 馬だき行きて をちこちに 鳥踏み立て 白塗の 小鈴もゆらに あはせ遣り 振り放け見つつ いきどほる 心のうちを 思ひ延べ 嬉しびながら 枕付く 妻屋のうちに 鳥座結ひ 据ゑてぞ我が飼ふ 真白斑の鷹 4155 矢形尾の 真白き鷹を やどに据ゑ 掻き撫で見つつ 飼はくしよしも 鵜を潜くる歌一首并せて短歌 4156 あらたまの 年行きかはり 春されば 花のみにほふ あしひきの 山下響み 落ち激ち 流る辟田の 川の瀬に 鮎子さ走る 島つ鳥 鵜養伴なへ 篝さし なづさひ行けば 我妹子が 形見がてらと 紅の 八しほに染めて おこせたる 衣の裾も 通りて濡れぬ ☆故地 4157 紅の 衣にほはし 辟田川 絶ゆることなく 我れかへり見む 4158 年のはに 鮎し走らば 辟田川 鵜八つ潜けて 川瀬尋ねむ 季春の三月の九日に、出挙の政に擬りて、古江の村に行く道の上にして、物花を属目する詠、并せて興の中に作る歌 渋谿の崎を過ぎて、巌の上の樹を見る歌一首 樹の名はつまま ☆故地 4159 磯の上の つままを見れば 根を延へて 年深からし 神さびにけり 世間の無常を悲しぶる歌一首 并せて短歌 4160 天地の 遠き初めよ 世間は 常なきものと 語り継ぎ 流らへ来れ 天の原 振り放け見れば 照る月も 満ち欠けしけり あしひきの 山の木末も 春されば 花咲きにほひ 秋づけば 露霜負ひて 風交り もみち散りけり うつせみも かくのみならし 紅の 色もうつろひ ぬばたまの 黒髪変り 朝の笑み 夕変らひ 吹く風の 見えぬがごとく 行く水の 止まらぬごとく 常もなく うつろふ見れば にはたづみ 流るる涙 留めかねつも 4161 言とはぬ 木すら春咲き 秋づけば もみち散らくは 常をなみこそ 4162 うつせみの 常なき見れば 世間に 心つけずて 思ふ日ぞ多き 予め作る七夕の歌一首 4163 妹が袖 我れ枕かむ 川の瀬に 霧立ちわたれ さ夜更けぬとに 勇士の名を振はむことを慕ふ歌一首 并せて短歌 4164 ちちの実の 父の命 ははそ葉の 母の命 おほろかに 心尽して 思ふらむ その子なれやも ますらをや 空しくあるべき 梓弓 末振り起し 投矢持ち 千尋射わたし 剣大刀 腰に取り佩き あしひきの 八つ峰踏み越え さしまくる 心障らず 後の世の 語り継ぐべく 名を立つべしも ☆花 4165 ますらをは 名をし立つべし 後の世に 聞き継ぐ人も 語り継ぐがね 右の二首は、山上憶良臣が作る歌に追ひて和ふ。 霍公鳥并せて時の花を詠む歌一首并せて短歌 4166 時ごとに いやめづらしく 八千種に 草木花咲き 鳴く鳥の 声も変らぬ 耳に聞き 目に見るごとに うち嘆き 萎えうらぶれ しのひつつ 争ふはしに 木の暗の 四月し立てば 夜隠りに 鳴くほととぎす いにしへゆ 語り継ぎつる うぐひすの 現し真子かも あやめぐさ 花橘を が 玉娘子ら貫くまでに あかねさす 昼はしめらに あしひきの 八つ峰飛び越え ぬばたまの 夜はすがらに 暁の 月に向ひて 行き帰り 鳴き響むれど なにか飽き足らむ ☆花 反歌二首 4167 時ごとに いやめづらしく 咲く花を 折りも折らずも 見らくしよしも 4168 毎年に 来鳴くものゆゑ ほととぎす 聞けばしのはく 逢はぬ日を多み 右は、二十日に、いまだ時に及らねども、興に依りて預め作る。 家婦の、京に在す尊母に贈るために、誂へらえて作る歌一首 并せて短歌 4169 ほととぎす 来鳴く五月に 咲きにほふ 花橘の かぐはしき 親の御言 朝夕に 聞かぬ日まねく 天離る 鄙にし居れば あしひきに 山のたをりに 立つ雲を よそのみ見つつ 嘆くそら 安けなくに 思ふそら 苦しきものを 奈呉の海人の 潜き取るといふ 白玉の 見が欲し御面 直向ひ 見む時までは 松柏の 栄えいまさね 貴き我が君 反歌一首 4170 白玉の 見が欲し君を 見ず久に 鄙にし居れば 生けるともなし 二十四日は立夏四月の節に応る。これによりて二十三日の暮に、たちまちに霍公鳥の暁に喧かむ声を思ひて作る歌二首 4171 常人も 起きつつ聞くぞ ほととぎす この暁に 来鳴く初声 4172 ほととぎす 来鳴き響めば 草取らむ 花橘を やどには植ゑずて 京の丹比が家に贈る歌一首 4173 妹を見ず 越の国辺に 年経れば 我が心どの なぐる日もなし 筑紫の大宰の時の春苑梅歌に追ひて和ふる一首 ☆花 4174 春のうちに 楽しき終は 梅の花 手折り招きつつ 遊ぶにあるべし 右の一首は、二十七日に興に依りて作る。 霍公鳥を詠む二首 4175 ほととぎす 今来鳴きそむ あやめぐさ かづらくまでに 離るる日あらめや も・の・は、三つの辞を欠く 4176 我が門ゆ 鳴き過ぎ渡る ほととぎす いやなつかしく 聞けど飽き足らず も・の・は・て・に・を、六つの辞を欠く 四月の三日に、越前の判官大伴宿禰池主に贈る霍公鳥の歌 感旧の意に勝へずして懐を述ぶる一首 并せて短歌 4177 我が背子と 手携はりて 明けくれば 出で立ち向ひ 夕されば 振り放け見つつ 思ひ延べ 見なぎし山に 八つ峰には 霞たなびき 谷辺には 椿花咲き うら悲し 春し過ぐれば ほととぎす いやしき鳴きぬ ひとりのみ 聞けば寂しも 君と我れと 隔てて恋ふる 礪波山 飛び越え行きて 明け立たば 松のさ枝に 夕さらば 月に向ひて あやめぐさ 玉貫くまでに 鳴き響め 安寐寝しめず 君を悩ませ ☆花 4178 我れのみ 聞けば寂しも ほととぎす 丹生の山辺に い行き鳴かにも 4179 ほととぎす 夜鳴きをしつつ 我が背子を 安寐な寝しめ ゆめ心あれ 霍公鳥を感づる情に飽かずして、懐を述べて作る歌一首 并せて短歌 4180 春過ぎて 夏来向へば あしひきの 山呼び響め さ夜中に 鳴くほととぎす 初声を 聞けばなつかし あやめぐさ 花橘を 貫き交へ かづらくまでに 里響め 鳴き渡れども なほししのはゆ 反歌三首 4181 さ夜更けて 暁月に 影見えて 鳴くほととぎす 聞けばなつかし 4182 ほととぎす 聞けども飽かず 網捕りに 捕りてなつけな 離れず鳴くがね 4183 ほととぎす 飼ひ通せらば 今年経て 来向ふ夏は まづ鳴きなむを 京師より贈来する歌一首 4184 山吹の 花取り持ちて つれもなく 離れにし妹を 偲ひつるかも 右は、四月の五日に留女の女郎より送れるぞ。 山吹の花を詠む歌一首 并せて短歌 ☆花 4185 うつせみは 恋を繁みと 春まけて 思ひ繁けば 引き攀ぢて 折りも折らずも 見るごとに 心なぎむと 茂山の 谷辺に生ふる 山吹を やどに引き植ゑて 朝露に にほへる花を 見るごとに 思ひはやまず 恋し繁しも 4186 山吹を やどに植ゑては 見るごとに 思ひはやまず 恋こそまされ 六日に、布勢の水海を遊覧して作る歌一首并せて短歌 ☆故地 4187 思ふどち ますらをのこの 木の暗 繁き思ひを 見明らめ 心遣らむと 布勢の海に 小舟つら並め ま櫂掛け い漕ぎ廻れば 乎布の浦に 霞たなびき 垂姫に 藤波咲きて 浜清く 白波騒き しくしくに 恋はまされど 今日のみに 飽き足らめやも かくしこそ いや年のはに 春花の 茂き盛りに 秋の葉の もみたむ時に あり通ひ 見つつしのはめ この布勢の海を ☆花 4188 藤波の 花は盛りに かくしこそ 浦漕ぎ廻つつ 年にしのはめ 鵜を越前の判官大伴宿禰池主に贈る歌一首 并せて短歌 4189 天離る 鄙としあれば そこここも 同じ心ぞ 家離り 年の経ゆけば うつせみは 物思ひ繁し そこゆゑに 心なぐさに ほととぎす 鳴く初声を 橘の 玉にあへ貫き かづらきて 遊ばむはしも ますらをを 伴なへ立てて 叔羅川 なづさひ上り 平瀬には 小網さし渡し 早き瀬に 鵜を潜けつつ 月に日に しかし遊ばね 愛しき我が背子 4190 叔羅川 瀬を尋ねつつ 我が背子は 鵜川立たさね 心なぐさに 4191 鵜川立ち 取らさむ鮎の しが鰭は 我れにかき向け 思ひし思はば 右は、九日に使に付けて贈る。 |