霍公鳥并せて藤の花を詠む一首 并せて短歌 4192 桃の花 紅色に にほひたる 面輪のうちに 青柳の 細き眉根を 笑み曲がり 朝影見つつ 娘子らが 手に取り持てる まそ鏡 二上山に 木の暗の 茂き谷辺を 呼び響め 朝飛び渡り 夕月夜 かそけき野辺に はろはろに 鳴くほととぎす 立ち潜くと 羽触れに散らす 藤波の 花なつかしみ 引き攀じて 袖に扱入れつ 染まば染むとも 4193 ほととぎす 鳴く羽触れにも 散りにけり 盛り過ぐらし 藤波の花 ☆花 同じき九日に作る。さらに霍公鳥の哢くこと晩きを恨むる歌三首 4194 ほととぎす 鳴き渡りぬと 告ぐれども 我れ聞き継がず 花は過ぎつつ 4195 我がここだ 偲はく知らに ほととぎす いづへの山を 鳴きか越ゆらむ 4196 月立ちし 日より招きつつ うち偲ひ 待てど来鳴かぬ ほととぎすかも 京人に贈る歌二首 4197 妹に似る 草と見しより 我が標めし 野辺の山吹 誰れか手折りし ☆花 4198 つれもなく 離れにしものと 人は言へど 逢はぬ日まねみ 思ひぞ我がする 右は、留女の女郎に贈らむために、家婦に誂へらえて作る。女郎はすなはち大伴家持が妹。 十二日に、布勢の水海に遊覧し、多胡の湾に舟泊りす。藤の花を望みて、おのもおのも懐を述べて作る歌四首 ☆故地 4199 藤波の 影なす海の 底清み 沈く石をも 玉とぞ我が見る 守大伴宿禰家持 4200 多の浦の 底さへにほふ 藤波を かざして行かむ 見ぬ人のため 次官内蔵忌寸繩麻呂 4201 いささかに 思ひて来しを 多の浦に 咲ける藤見て 一夜経ぬべし 判官久米朝臣広繩 4202 藤波を 仮廬に作り 浦廻する 人とは知らに 海人とか見らむ
久米朝臣継麻呂 霍公鳥の喧かぬことを恨むる歌一首 4203 家に行きて 何を語らむ あしひきの 山ほととぎす 一声も鳴け 判官久米朝臣広繩攀ぢ折れる保宝葉を見る歌二首 4204 我が背子が 捧げて持てる ほほがしは あたかも似るか 青き蓋 ☆花 講師僧恵行 4205 すめろきの 遠御代御代は い重き折り 酒飲みきといふぞ このほほがしは 守大伴宿禰家持 還る時に、浜の上にして月の光を仰ぎ見る歌一首 4206 渋谿を さして我が行く この浜に 月夜飽きてむ 馬しまし止め ☆故地 守大伴宿禰家持 二十二日に、判官久米朝臣広繩に贈る霍公鳥を怨恨むる歌一首 并せて短歌 4207 ここにして そがひに見ゆる 我が背子が 垣内の谷に 明けされば 榛のさ枝に 夕されば 藤の茂みに はろはろに 鳴くほととぎす 我がやどの 植木橘 花に散る 時をまだしみ 来鳴かなく そこは恨みず しかれども 谷片付きて 家居せる 君が聞きつつ 告げなくも憂し ☆花 反歌一首 4208 我がここだ 待てど来鳴かぬ ほととぎす ひとり聞きつつ 告げぬ君かも 霍公鳥を詠む歌一首 并せて短歌 4209 谷近く 家は居れども 木高くて 里はあれども ほととぎす いまだ来鳴かず 鳴く声を 聞かまく欲りと 朝には 門に出で立ち 夕には 谷を見わたし 恋ふれども 一声だにも いまだ聞こえず 4210 藤波の 茂りは過ぎぬ あしひきの 山ほととぎす などか来鳴かぬ 右は、二十三日掾久米朝臣広繩和ふ。 処女墓の歌に追ひて同ふる一首 并せて短歌 ☆故地 4211 いにしへに ありけるわざの くすばしき 事と言ひ継ぐ 茅渟壮士 菟原壮士の うつせみの 名を争ふと たまきはる 命も捨てて 争ひに 妻どひしける 娘子らが 聞けば悲しさ 春花の にほえ栄えて 秋の葉の にほひに照れる あたらしき 身の盛りすら ますらをの 言いたはしみ 父母に 申し別れて 家離り 海辺に出で立ち 朝夕に 満ち来る潮の 八重波に 靡く玉藻の 節の間も 惜しき命を 露霜の 過ぎましにけれ 奥城を ここと定めて 後の世の 聞き継ぐ人も いや遠に 偲ひにせよと 黄楊小櫛 しか刺しけらし 生ひて靡けり 4212 娘子らが 後の標と 黄楊小櫛 生ひ変り生ひて 靡きけらしも 右は、五月の六日に、興に依りて大伴宿禰家持作る。 4213 東風をいたみ 奈呉の浦みに 寄する波 いや千重しきに 恋ひわたるかも 右の一首は、京の丹比が家に贈る。 挽歌一首 并せて短歌 4214 天地の 初めの時ゆ うつそみの 八十伴の男は、大君に まつろふものと 定まれる 官にしあれば 大君の 命畏み 鄙離る 国を治むと あしひきの 山川へなり 風雲に 言は通へど 直に逢はず 日の重なれば 思ひ恋ひ 息づき居ると 玉桙の 道来る人の 伝て言に 我れは語らく はしきよし 君はこのころ うらさびて 嘆かひいます 世間の 憂けく辛けく 咲く花も 時にうつろふ うつせみも 常なくありけり たらちねの 御母の命 何しかも 時しはあらむを まそ鏡 見れども飽かず 玉の緒の 惜しぃ盛りに 立つ霧の 失せぬるごとく 置く露の 消ぬるがごとく 玉藻なす 靡き臥い伏し 行く水の 留めかねてきと たはことか 人の言ひつる およづれか 人の告げくる 梓弓 爪引く夜音の 遠音にも 聞けば悲しみ にはたづみ 流るる涙 留めかねつも 反歌二首 4215 遠音にも 君が嘆くと 聞きつれば 哭のみし泣かゆ 相思ふ我れは 4216 世間の 常なきことは 知るらむを 心尽すな ますらをにして 右は、大伴宿禰家持、婿の南の右大臣家の藤原二郎が慈母を喪ふ患へを弔ふ。 五月の二十七日霖雨の晴れぬる日に作る歌一首 4217 卯の花を 腐す長雨の 水始に 寄る木屑なす 寄らむ子もがも ☆花 漁夫の火光を見る歌一首 4218 鮪突くと 海人の燭せる 漁り火の 穂にか出ださむ 我が下思ひを 右の二首は五月。 4219 我がやどの 萩咲きにけり 秋風の 吹かむを待たば いと遠みかも ☆花 右の一首は、六月の十五日に、萩の早花を見て作る。 京師より来贈する歌一首 并せて短歌 4220 海神の 神の命の み櫛笥に 貯ひ置きて 斎くとふ 玉にまさりて 思へりし 我が子にはあれど うつせみの 世の理と ますらをの 引きのまにまに しなざかる 越道をさして 延ふ蔦の 別れにしより 沖つ波 撓む眉引き 大船の ゆくらゆくらに 面影に もとな見えつつ かく恋ひば 老いづく我が身 けだし堪へむかも ☆花 反歌一首 4221 かくばかり 恋しくあらば まそ鏡 見ぬ日時なく あらましものを 右の二首は、大伴氏坂上郎女、女子大嬢に賜ふ。 九月の三日に宴する歌二首 4222 このしぐれ いたくな降りそ 我妹子に 見せむがために 黄葉取りてむ 右の一首は、掾久米朝臣広繩作る。 4223 あをによし 奈良人見むと 我が背子が 標めけむ黄葉 地に落ちめやも 右の一首は、守大伴宿禰家持作る。 4224 朝霧の たなびく田居に 鳴く雁を 留め得むかも 我がやどの萩 右の一首は、吉野の宮に幸す時に、藤原皇后作らす。ただし、いまだ審詳らかにあらず。 十月の五日に、河辺朝臣東人、伝誦してしか云ふ。 4225 あしひきの 山の黄葉に しづくあひて 散らむ山道を 君が越えまく
右の一首は、同じき月の十六日に、朝集使少目秦伊美吉石竹を餞する時に、守大伴宿禰家持作る。 雪の日に作る歌一首 4226 この雪の 消残る時に いざ行かな 山橘の 実の照るも見む ☆花 右の一首は、十二月に大伴宿禰家持作る。 4227 大殿の この廻りの 雪な踏みそね しばしばも 降らぬ雪ぞ 山のみに 降りし雪ぞ ゆめ寄るな 人や な踏みそね 雪は 反歌一首 4228 ありつつも 見したまはむぞ 大殿の この廻りの 雪な踏みそね 右の二首の歌は三方沙弥、贈左大臣藤原北卿が語を承けて作り誦む。これを聞きて伝ふるは、笠朝臣子君。また後に伝へ読むは、越中の国の掾久米朝臣広繩ぞ。 天平勝宝三年 4229 新しき 年の初めは いや年に 雪踏み平し 常かくにもが 右の一首の歌は、正月の二日に、守が館にして集宴す。時に、降る雪ことに多にして、積みて四尺有り。すなはち、主人大伴宿禰家持、この歌を作る。 4230 降る雪を 腰になづみて 参ゐて来し 験もあるか 年の初めに 右の一首は、三日に介内蔵忌寸繩麻呂が館に会集して宴楽する時に、大伴宿禰家持作る。 時に、雪を積みて重巌の起てるを彫り成し、奇巧みに草樹の花を綵り発す。これに属きて、掾久米朝臣広繩が作る一首 4231 なでしこは 秋咲くものを 君が家の 雪の巌に 咲けりけるかも 遊行女婦蒲生娘子が歌一首 4232 雪の山斎 巌に植ゑたる なでしこは 千代に咲かぬか 君がかざしに ☆花 ここに、諸人酒酣にして、更深けて鶏鳴く。これによりて、主人内蔵伊美吉繩麻呂が作る歌一首 4233 うち羽振き 鶏は鳴くとも かくばかり 降り敷く雪に 君いまさめやも 守大伴宿禰家持が和ふる歌一首 4234 鳴く鶏は いやしき鳴けど 降る雪の 千重に積めこそ 我が立ちかてね 太政大臣藤原家の県犬養命婦、天皇に奉る歌一首 4235 天雲を ほろに踏みあだし 鳴る神も 今日にまさりて 畏けめやも 右の一首、伝誦するは掾久米朝臣広繩ぞ。 死にし妻を悲傷しぶる歌一首 并短歌 作主いまだ詳らかにあらず 4236 天地の 神はなかれや 愛しき 我が妻離る 光る神 鳴りはた娘子 携はり ともにあらむと 思ひしに 心違ひぬ 言はむすべ 為むすべ知らに 木綿だすき 肩に取り懸け 倭文幣を 手に取り持ちて な放けそと 我れは祈れど まきて寝し 妹が手本は 雲にたなびく反歌一首 4237 うつつにと 思ひてしかも 夢のみに 手本まき寝と 見ればすべなし 右の二首、伝誦するは遊行女婦蒲生ぞ。 二月の二日に、守が館に会集し宴して作る歌一首 4238 君が行き もし久にあらば 梅柳 誰れとともにか 我がかづらかむ ☆花 ☆花 右は、判官久米朝臣広繩、正税帳をもちて、京師に入らむとす。よりて、守大伴宿禰家持この歌を作る。ただし、越中の風土、梅花柳絮三月にして初めて咲くのみ。 霍公鳥を詠む歌一首 4239 二上の 峰の上の茂に 隠りにし そのほととぎす 待てど来鳴かず 右は、四月の十六日に大伴宿禰家持作る。 |