独り龍田山の桜花を惜しむ歌一首 ☆花 4395 龍田山 見つつ越え来し 桜花 散りか過ぎなむ 我が帰るとに 独り江水に浮かび漂ふ木屑を見、貝玉の依らぬことを怨恨みて作る歌一首 4396 堀江より 朝潮満ちに 寄る木屑 貝にありせば つとにせましを 館の門に在りて、江南の美女を見て作る歌一首 4397 見わたせば 向つ峰の上の 花にほひ 照りて立てるは 愛しき誰が妻 右の三首は、二月の十七日に兵部少輔大伴家持作る。 防人が情と為り思ひを陳べて作る歌一首 并せて短歌 4398 大君の 命畏み 妻別れ 悲しくはあれど ますらをの 心振り起し 取り装ひ 門出をすれば たらちねの 母掻き撫で 若草の 妻取り付き 平けく 我れは斎はむ ま幸くて 早帰り来と 真袖もち 涙を拭ひ むせひつつ 言どひすれば 群鳥の 出で立ちかてに とどこほり かへり見しつつ いや遠に 国を来離れ いや高に 山を越え過ぎ 葦が散る 難波に来居て 夕潮に 船を浮け据ゑ 朝なぎに 舳向け漕がむと さもらふと 我が居る時に 春霞 島みに立ちて 鶴が音の 悲しく鳴けば はろはろに 家を思ひ出 負ひ征矢の そよと鳴るまで 嘆きつるかも 4399 海原に 霞たなびき 鶴が音の 悲しき宵は 国辺に思ほゆ 4400 家思ふと 寐を寝ず居れば 鶴が鳴く 葦辺も見えず 春の霞に ☆花 右は、十九日に兵部少輔大伴家持作る。 4401 唐衣 裾に取り付き 泣く子らを 置きてぞ来のや 母なしにして 右の一首は国造小県の郡の他田舎人大島。 4402 ちはやぶる 神のみ坂に 幣奉り 斎ふ命は 母父がため ☆故地 右の一首は主帳埴科の郡の神人部子忍男。 ☆故地 4403 大君の 命畏み 青雲の とのびく山を 越よて来のかむ 右の一首は小長谷部笠麻呂。 二月の二十二日。信濃の国の防人部領使、道に上り、病を得て来ず。進る歌の数十二首。ただし、拙劣の歌は取り載せず。
4404 難波道を 行きて来までと 我妹子が 付けし紐が緒 絶えにけるかも 右の一首は助丁上毛野牛甘。 4405 我が妹子が 偲ひにせよと 付けし紐 糸になるとも 我は解かじとよ 右の一首は朝倉益人。 4406 我が家ろに 行かも人もが 草枕 旅は苦しと 告げ遣らまくも 右の一首は大伴部節麻呂。 4407 ひな曇り 碓氷の坂を 越えしだに 妹が恋しく 忘らえぬかも ☆故地 右の一首は他田部子磐前。 二月の二十三日、上野の国の防人部領使大目正六位下上毛野君駿河。進る歌の数十二首。ただし、拙劣の歌は取り載せず。
防人が悲別の情を陳ぶる歌一首 并せて短歌 4408 大君の 任けのまにまに 島守に 我が立ち来れば ははそ葉の 母の命は み裳の裾 摘み上げ掻き撫で ちちの実の 父の命は 栲づのの 白ひげの上ゆ 涙垂り 嘆きのたばく 鹿子じもの ただひとりして 朝戸出の 愛しき我が子 あらたまの 年の緒長く 相見ずは 恋しくあるべし 今日だにも 言どひせむと 惜しみつつ 悲しびませば 若草の 妻も子どもも をちこちに さはに囲み居 春鳥の 声のさまよひ 白栲の 袖泣き濡らし たづさはり 別れかてにと 引き留め 慕ひしものを 大君の 命畏み 玉桙の 道に出で立ち 岡の崎 い廻むるごとに 万たび かへり見しつつ はろはろに 別れし来れば 思ふそら 安くもあらず 恋ふるそら 苦しきものを うつせみの 世の人なれば たまきはる 命も知らず 海原の 畏き道を 島伝ひ い漕ぎ渡りて あり廻り 我が来るまでに 平けく 親はいまさね 障みなく 妻は待たせと 住吉の 我が統め神に 幣奉り 祈り申して 難波津に 船を浮け据ゑ 八十楫貫き 水手ととのへて 朝開き 我が漕ぎ出ぬと 家に告げこそ ☆花 4409 家人の 斎へにかあらむ 平けく 船出はしぬと 親に申さね 4410 み空行く 雲も使と 人は言へど 家づと遣らむ たづき知らずも 4411 家づとに 貝ぞ拾へる 浜波は いやしくしくに 高く寄すれど 4412 島蔭に 我が船泊てて 告げ遣らむ 使をなやみ 恋ひつつ行かむ 二月の二十三日、兵部大輔大伴宿禰家持。 4413 枕大刀 腰に取り佩き ま愛しき 背ろが罷き来む 月の知らなく 右の一首は上丁那加の郡の檜前舎人石前が妻の大伴部真足女。 4414 大君の 命畏み 愛しけ 真子が手離り 島伝ひ行く 右の一首は助丁秩父の郡の大伴部小歳。 4415 白玉を 手に取り持して 見るのすも 家なる妹を また見てももや 右の一首は主帳荏原の郡の物部歳徳。 4416 草枕 旅行く背なが 丸寝せば 家なる我れは 紐解かず寝む 右の一首は妻の椋椅部刀自売。 4417 赤駒を 山野にはかし 捕りかにて 多摩の横山 徒歩ゆか遣らむ ☆故地 右の一首は豊島の郡の上丁椋椅部荒虫が妻の宇遅部黒女。 4418 我が門の 片山椿 まこと汝れ 我が手触れなな 地に落ちもかも ☆花 右の一首は荏原の郡の上丁物部広足。 4419 家ろには 葦火焚けども 住みよけを 筑紫に至りて 恋しけ思はも 右の一首は橘樹の郡の上丁物部真根。 4420 草枕 旅の丸寝の 紐絶えば 我が手と付けろ これの針持し 右の一首は妻の椋椅部弟女。 4421 我が行きの 息づくしかば 足柄の 峰延ほ雲を 見とと偲はね ☆故地 右の一首は都筑の郡の上丁服部於由。 4422 我が背なを 筑紫へ遣りて 愛しみ 帯は解かなな あやにかも寝も 右の一首は妻の服部呰女。 4423 足柄の み坂に立して 袖振らば 家なる妹は さやに見もかも 右の一首は埼玉の郡の上丁藤原部等母麻呂。 4424 色深く 背なが衣は 染めましを み坂給らば まさやかに見む 右の一首は妻の物部刀自売。 二月の二十九日、武蔵の国の部領防人使掾正六位上安曇宿禰三国。進る歌の数二十首。ただし、拙劣の歌は取り載せず。
4425 防人に 行くは誰が背と 問ふ人を 見るが羨しさ 物思ひもせず 4426 天地の 神に幣置き 斎ひつつ いませ我が背な 我れをし思はば 4427 家の妹ろ 我を偲ふらし 真結ひに 結ひし紐の 解くらく思へば 4428 我が背なを 筑紫は遣りて 愛しみ えひは解かなな あやにかも寝む 4429 馬屋なる 繩絶つ駒の 後るがへ 妹が言ひしを 置きて悲しも 4430 荒し男の いをさだ挟み 向ひ立ち かなるましづみ 出でてと我が来る 4431 笹が葉の さやぐ霜夜に 七重着る 衣に増せる 子ろが肌はも ☆花 4432 障へなへぬ 命にあれば 愛し妹が 手枕離れ あやに悲しも 右の八首は、昔年の防人が歌なり。主典刑部少録正七位上磐余伊美吉諸君抄写し、兵部少輔大伴宿禰家持に贈る。 三月の三日に、防人を検校する勅使と兵部の使人等と同に集ひ、飲宴して作る歌三首 4433 朝な朝な 上るひばりに なりてしか 都に行きて 早帰り来む 右の一首は勅使紫微大弼安倍沙美麻呂朝臣。 4434 ひばり上る 春へとさやに なりぬれば 都も見えず 霞たなびく 4435 ふふめりし 花の初めに 来し我れや 散りなむ後に 都へ行かむ 右の二首は兵部少輔大伴宿禰家持。 昔年に相替りし防人が歌一首 4436 闇の夜の 行く先知らず 行く我れを いつ来まさむと 問ひし子らはも |