大和もここも 大宰府政庁跡

太宰府市坂本

帥大伴卿が和ふる歌一首

やすみしし 我が大君の 食す国は 大和もここも 同じとぞ思ふ  巻6−956

大伴旅人は大宰府の帥(長官)としてこの地に赴任した。

石川足人が奈良のことを思い出すかとの問い歌に対して、ここ大宰府も奈良も変わりないと答えている。

左遷説もあるが、赴任後奈良の都では長屋王事件が起るなど、不穏な政治情勢の中での大宰府長官となった。

反藤原氏派として都から離されたのかもしれない。

万葉集の旅人ファンとしては、外交手腕を買われ長官に任じられたのだと思いたい。

万葉集の残された旅人の大宰府時代の歌群は、

梅花宴(巻5−815〜846)、遊松浦河(巻5−853〜863)、蘆城の駅家に餞する歌(巻4−568〜571)などである。

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大宰府

天智天皇三年(663)百済日本連合軍は白村江の戦いで唐新羅軍に大敗し、半島から完全に手を引いた。

同四年、唐新羅の侵略を恐れて防人・烽を設置し、筑紫に水城を造った。さらに翌年には大野城と椽城を築いた。

このような状況の中、防衛上と外交上の拠点として大宰府がこの地に築かれた。7世紀後半と言われる。

神亀四年(727)、大伴旅人が着任したと云われるが、正史には記録がない。

現在の国庁跡は都府楼址と呼ばれ、大きな敷地跡に礎石を残すのみであるが、平城京・平安京に次ぐ規模といわれる。

万葉集では「遠の朝廷」と詠まれた歌がある。

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万葉歌碑・・・都府楼址バス停の道沿い

政庁跡の万葉歌碑

政庁跡北側

世間は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり  巻5−793

余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之加利家理

政庁跡・学校院跡北側

瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものぞ

 まなかひに もとなかかりて 安寐し寝さぬ  巻5−802

反歌

銀も 金も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも  巻5−803

政庁跡・大宰府展示館

あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり  巻3−328

青丹吉 寧楽乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有

政庁跡西北の隅

正月立ち 春の来らば かくしこそ 梅を招きつつ 楽しき終へめ  巻5−815

武都紀多知 波流能吉多良婆 可久斯許曽 烏梅乎々岐都々 多努之岐乎倍米

大宰府天満宮

境内の万葉歌碑

我が園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも  主人 巻5−822

和何則能尓 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母

万代に 年は来経とも 梅の花 絶ゆることなく 咲きわたるべし  筑前介佐氏子首 巻5−830

萬世尓 得之波岐布得母 烏梅能波奈 多由流己等奈久 佐吉和多留倍子

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