城の山 基山

福岡県筑紫野市山口佐賀県三養基郡基山町基山

式部大輔石上堅魚朝臣が歌一首

ほととぎす 来鳴き響もす 卯の花の 伴にや来しと 問はましものを  巻8−1472

右は、神亀五年戊辰に、大宰帥大伴卿が妻大伴郎女、病に遇ひて長逝す。

その時に、勅使式部大輔石上朝臣堅魚を大宰府に遣はして、喪を弔ひ并せて物を賜ふ。

その事すでに畢りて、駅使と府の諸卿大夫等と、ともに記夷の城に登りて望遊する日に、すなはちこの歌を作る。

基山は大宰府の南約8`のところに位置し、人々は大宰府から肥前国や筑後国に行く場合、この基山の東麓「城の山道」を通っていた。

基山には、西峰の坊住山(405b)と北峰(414b)を連ねる稜線、そしてこれに平行する東峰(327b)とがあり、

これらの山は北で連なり、内側に袋のような谷を抱き、南に谷口を向けている。

天智天皇の四年(665)大野城、長門城とともに、ここに基肄城が築かれた。

当時、百済が新羅と唐の連合軍に滅ぼされ(660)、

日本は救いを求めた百済に援軍を送るも、白村江の戦いで敗北し、百済の人々とともに逃げ帰ってきた(663)。

勢いに乗る新羅と唐が攻め込んでくるのを防ごうと急ぎ城を築いたのである。

朝鮮式山城といわれ、天智天皇の命を受け百済の亡命者たちの指揮で朝鮮で築かれた山城と同じ作りで築かれている。

基肄城は、その北東の低い鞍部に堤を築き、峰々の間を埋め、稜線上に土や石を積み上げた土塁をめぐらしている。

土塁の長さは約4`にわたり、その内部全体が城になっている。

城内には、倉庫跡と見られる礎石が並び、南門近くには水門も見られる。

城を守る軍隊は基肄軍団と呼ばれ、麓に本拠を構えていたといわれ、そこには千人を超える防人がいたといわれる。

基山の東麓(筑紫野市山口)

城の山道(自然歩道基山コース)

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筑紫野市山口にある万葉歌碑

山神ダム駐車場奥の公園

梅の花 散らくはいづく しかすがに この城の山に 雪は降りつつ  大監伴氏百代  巻5−823

烏梅能波奈 知良久波伊豆久 志可須我尓 許能紀能夜麻尓 由企波布理都々

自然歩道基山コース沿い

大宰帥大伴卿が京に上りし後に、筑後守葛井連大成が悲嘆しびて作る歌一首

今よりは 城の山道は 寂しけむ 我が通はむと 思ひしものを  巻4−576

従今者 城山道者 不樂牟 吾将通常 念之物乎

天拝湖

式部大輔石上堅魚朝臣が歌一首

ほととぎす 来鳴き響もす 卯の花の 伴にや来しと 問はましものを  巻8−1472

霍公鳥 来鳴令響 宇乃花能 共也来之登 問麻思物乎

天拝湖

沙弥満誓、綿を詠む歌一首  造筑紫観音寺別当、俗姓は笠朝臣麻呂なり

しらぬひ 筑紫の綿は 身に付けて いまだは着ねど 暖けく見ゆ  巻3−336

白縫 筑紫乃綿者 身著而 未者伎祢杼 暖所見

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