筑紫館つくしのむろつみ  鴻臚館跡

福岡市中央区城内

筑紫の館に至りて、本郷を遥かに望み、悽愴びて作る歌四首

志賀の海人の 一日もおちず 焼く塩の からき恋をも 我れはするかも  巻15−3652

志賀の浦に 漁りする海人 家人の 待ち恋ふらむに 明かし釣る魚  巻15−3653

可之布江に 鶴鳴き渡る 志賀の浦に 沖つ白波 立ちし来らしも  巻15−3654

今よりは 秋づきぬらし あしひきの 山松蔭に ひぐらし鳴きぬ  巻15−3655

「鴻臚館跡資料館」でいただいた資料から鳥瞰図

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筑紫の鴻臚館は古くは、筑紫館(ムロツミ)と呼ばれた。

筑紫館が史料に初めて現れるのは、持統二年(688)で、新羅からの国使を迎えている。

また『万葉集』には、

新羅への使節の一行が、天平八年(736)に詠った「筑紫館に至りて、遥かに本郷を望み、悽愴びて作る歌四首」が知られている。

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筑紫館は、わが国の律令制度の施策の下で進んだ大宰府の造営とともに行われ、

680年代から740年代(奈良時代半ば)まで存続したと考えられる。

中国風の鴻臚館に変わるのはそれ以降であり、承和五年(838)以降の史料に筑紫の鴻臚館は現れ、寛治五年(1091)の記事を最後とする。


鴻臚館跡

資料館内

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万葉歌碑

福岡市中央区城内・舞鶴公園(巻15−3655)

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