家 島

兵庫県姫路市家島町

筑紫を廻り来て、海路にして京に入らむとし、播磨の国の家島に至りし時に作る歌五首

家島は 名にこそありけれ 海原を 我が恋ひ来つる 妹もあらなくに  巻15−3718

草枕 旅に久しく あらめやと 妹に言ひしを 年の経ぬらく  巻15−3719

我妹子を 行きて早見む 淡路島 雲居に見えぬ 家づくらしも  巻15−3720

ぬばたまの 夜明かしも船は 漕ぎ行かな 御津の浜松 待ち恋ひぬらむ  巻15−3721

大伴の 御津の泊りに 船泊てて 龍田の山を いつか越え行かむ  巻15−3722

遣新羅使人の歌はこの五首を以って終る。帰路の歌はこの五首のみである。

全歌で百四十五首をおさめるが往路は対馬での歌で終り、訪ねた新羅の歌もなく帰路はこの家島だけなのである。

帰路、対馬で大使が亡くなるという不幸があったり、副大使が病で帰京が遅れるといった事態になり、統制のとれない状態での帰国のようだ。

それよりも、目的の新羅を訪ねたが使節の使命をまったく受け入れなかったという成果のない旅、帰路の思苦しい船中が想像できる。

家島は姫路の沖合いにあり、ここから明石海峡を通れば難波に着ける。

「家」のこと妹のことなど、はやる気持ちを抑えられない家島の船泊りであったろう。

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『続日本紀』に記された遣新羅使人の項目を挙げると、

天平八年二月二十八日 従五位下の阿倍朝臣継麻呂を遣新羅大使に任命した。

夏四月十七日 遣新羅使の阿倍朝臣継麻呂らが天皇に出発に臨んでの拝謁をした。

天平九年正月二十七日 遣新羅使の大判官で従六位上の壬生使主宇太麻呂・少判官で正七位上の大蔵忌寸麻呂らが、新羅から帰って入京した。

大使・従五位下の阿倍朝臣継麻呂は津島(対馬)に停泊中に卒し、副使で従六位下の大伴宿禰三中は病気に感染して入京することはできなかった。

二月十五日 遣新羅使が帰朝報告をし、新羅の国がこれまで通りの礼儀を無視し、わが使節の使命を受け入れなかったことを奏上した。

そこで天皇は五位以上と六位以下の官人、合わせて四十五人を内裏に召し集めて、それぞれの意見を陳べさせられた。

二月二十二日 諸官司が意見をしるした上奏文を奏上した。

或る者は使者を派遣してその理由を問うべきであるといい、或る者は兵を発して征伐を実施すべきであると奏上した。

三月二十八日 入京の遅れていた遣新羅使の副使で正六位上の大伴宿禰三中ら四十人が天皇に拝謁した。

夏四月一日 使者を伊勢神宮・大神神社・筑紫の住吉・八幡の二社および香椎宮に幣帛を奉り、新羅国の無礼のことを報告した。

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正史は以上のように語る。

ひとつだけ嬉しいのは、副使の大伴三中さんが昇位していることくらいだ。

正史が語らない遣新羅使人たちの艱難辛苦を万葉集は語っている。

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島内の万葉歌碑

写真左は家島・天神鼻にある家島神社の鳥居横の歌碑。写真右は家島神社から少し山を登ったところにある清水公園の歌碑。

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播磨國風土記』揖保の郡に家島の地名由来が記される。家島はその昔、「伊刀嶋」といった。

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伊刀嶋 諸の嶋の總名なり。

右は、品太の天皇、射目人を餝磨の射目前に立ててみ狩したまひき。

ここに、我馬野より出でし牝鹿、此の阜を過ぎて海に入り、伊刀嶋に泳ぎ渡りき。

その時、翼人等望み見て、相語りていひしく、「鹿は、既く彼の嶋に到り就きぬ」といひき。故、伊刀嶋と名づく。

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