薩摩守  大伴宿禰家持

鹿児島県薩摩川内市

『続日本紀』

天平宝字八年正月己未、従五位上大伴宿禰家持を薩摩守


薩摩川内市中郷・万葉の散歩道

薩摩川内市鳥追町・JR川内駅前

鹿児島県薩摩川内市には大伴家持の像が立つ。

なぜ家持かというと、『続日本紀』に記されているように、天平宝字八年(764)正月に薩摩守を拝命した。

・・・

万葉の旅も、この地が最も南の地になりそうだから、家持についてまとめてみたい。

・・・・・

『万葉集』に登場する家持は、

天平十年(738)の「右の一首は内舎人大伴宿禰家持」(巻8−1591)、21歳か22歳の頃である。

内舎人うどねりとは、陰位という制度で、偉いさん(五位以上)の子孫はいちはやく出世の官位につくことができた。

家持は、従二位大納言大伴旅人の息子だから、文句なしに内舎人だ。

社長の息子が主任・係長を飛び越えて、課長・部長にいきなり就任するようなもの。若僧のくせに。

・・・

天平十二年(740)、聖武天皇の東国行幸に従駕する。天皇のお供をするってなかなかの出世だ。

恭仁京讃歌を詠んだ頃で、上司は橘諸兄、前途洋々の若者だった。

・・・

天平十八年(746)、越中国の国守に就任、大出世やな。

『万葉集』巻十七以降に詠まれた国守時代の歌は220余首を数える。絶好調の時代だ。30歳の県知事。

・・・

天平勝宝三年(751)、越中国国守の任期を終え、少納言となって帰京。

・・・

天平勝宝六年(754)、兵部少輔となる。

防人の管理責任者で、『万葉集』に防人の歌群が残されたのはこの役職のおかげ。

女官の管理責任者でなくてよかった。『万葉集』も女性の歌ばかりになっていたかも。防人の歌でよかった。

・・・

このころから政界の雲行きがあやしくなる。藤原仲麻呂(武智麻呂の次男)の台頭である。

天平勝宝八年(756)、家持の上司橘諸兄が辞職に追い込まれた。さらに翌年(757)、橘諸兄死去。

政界派閥藤原派が実権を握り、旧諸兄派は風前の灯。諸兄の息子、橘奈良麻呂は焦った。

天平勝宝九年(757)、仲麻呂打倒のクーデタを計画、未遂に終り奈良麻呂は殺されてしまった。

家持も旧諸兄派、計画には参画しなかったようだが、風当たりはきつい。

・・・

天平宝字二年(758)、因幡国の国守を拝命。中央から離された、体のよい左遷である。

翌年の天平宝字三年(759)正月、『万葉集』最後の歌を詠む。『万葉集』20巻が閉じられた。

・・・

その後の家持

天平宝字七年、藤原宿奈麻呂らによる藤原仲麻呂暗殺計画、これも未遂に終るが、家持も参画を疑われた。

宿奈麻呂ひとりが責任を負ったため、罪には問われなかったが、

天平宝字八年(764)、薩摩守を拝命。報復人事といわれている。

ここ薩摩川内市に家持像が立つ由縁である。

・・・

さらに政争は続く。

宝亀元年(770)民部少輔、宝亀七年(776)伊勢国国守、宝亀十一年(780)参議に昇進になるも、

延暦元年(782)氷上川継の謀反に関与したとして都を追放される。

しかし同年、許されて中納言従三位の家持は春宮大夫兼陸奥按察使鎮守将軍となる。そして、

延暦四年(785)八月二十八日、家持没。

・・・

ところが、亡くなってまだ埋葬もしていない時、藤原種継暗殺事件が起る。

この事件に家持も関与したとして埋葬も許されず除名、息子の永主も隠岐に流された。

許されて従三位に復されるのは大同三年(806)のことである。

・・・

家持の人生後半は政争の繰り返し、それでも図太く生き延びた。

政争に巻き込まれたというより、大伴宗家として政略を画策した黒幕が家持自身だったかもしれない。

『万葉集』は天平宝字八年(759)の歌を最後とする。以後家持は歌を詠まなかったのだろうか。いやそんなことはないはず。

以後の歌集は、

政争が繰り返される中、暗殺計画などの案文や血判状などと共に、露見したときに自らの手で焼却してしまったのではないだろうか。

・・・

家持が、もしも常に勝者側の派閥にいたとしたら、

『万葉集』は二十巻ではなく、五十巻くらいに編集されていたのではないだろうか。

そうなると後世の私たちは、「万葉集講義」の講義時間が今の倍あっても追いつかない。

『万葉集』は名実ともに一万首、えらいことになっていただろう。

・・・・・・・

薩摩川内市の国府跡地の近くに、家持像と万葉の花を詠った歌碑が並ぶ。

「万葉の散歩道」という。

← 次ぎへ

故地一覧へ

万葉集 万葉故地 鹿児島 大伴宿禰家持 薩摩守

万葉集を携えて

inserted by FC2 system