久邇の都  恭仁宮跡

京都府木津川市加茂町例幣

十五年癸未の秋の八月の十六日に、内舎人大伴宿禰家持、久邇の京を讃めて作る歌一首

今造る 久邇の都は 山川の さやけき見れば うべ知らすらし  巻6−1037

私は今、加茂町の木津川に架かる恭仁大橋の上に立つ。

木津川が悠々と流れる。正面の西方には万葉集に詠われる鹿背の山、当時木津川は泉川と呼ばれた。家持の見ていた風景そのままのようだ。「久邇の都は山川のさやけき見れば」と詠う。橋の畔には、万葉歌碑がある。

恭仁宮跡

加茂町の木津川の北側に恭仁宮跡がある。大極殿跡の礎石を残す。

恭仁宮は3年余の短い都であったため、その後山城国分寺として利用された。

そのため大極殿跡は国分寺金堂跡と重なり、七重塔であっただろうという塔の礎石も残る。

恭仁京

聖武天皇によって営まれた都城である。

もともとこの辺りに甕原離宮というのがあり、聖武天皇は何度か行幸していた。

聖武天皇の世、地震が頻発したり、疫病が流行り、政情も不安となり、この地恭仁京への遷都を考えたのだろうか。

『続日本紀』に、

政情不安が増し、天平十二年九月三日、藤原広嗣がついに兵を動かして反乱を起した。

十月二十六日、天皇は勅した。

朕は思うところがあって、今月の末より暫くの間、関東に行こうと思う。行幸に適した時期ではないが、事態が重大でやむを得ないことである。

二十九日、伊勢国に向け出発した。

十一月三日、逆賊の広嗣が肥前国で捕らえられたの報が入った。広嗣の処断を命じて、車駕は進む。

伊勢、伊賀、美濃、近江国をくるっと廻り、

天平十二年十二月十五日、天皇は先発して恭仁宮に行幸し、はじめてここを都と定めた。

・・・・・・・

天平十六年二月二十六日、左大臣が勅をのべて次のように言った。「今から難波宮を皇都と定める」

・・・・・

わずか3年余の恭仁京だった。

しかもこの3年の間に、紫香楽宮を造営したり、甲賀寺を開いて盧舎那仏の像を造ろうとしたり、

世情不安と仏に帰依しようとする聖武天皇の揺れ動く気持を垣間見ることができるようだ。

後、盧舎那仏は奈良東大寺の大仏として完成させたが。

恭仁京、紫香楽京、難波京の三都を往還、諸兄や家持のような官人たちは堪らない。

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