橘朝臣が宅 玉井頓宮跡 六角井戸 橘諸兄旧跡 京都府綴喜郡井出町石垣 十一月の八日に、左大臣橘朝臣が宅に在して肆宴したまふ歌四首 よそのみに 見ればありしを 今日見ては 年に忘れず 思ほえむかも 右の一首は太上天皇の御歌 巻19−4269 葎延ふ 賤しきやども 大君の 座さむと知らば 玉敷かましを 右の一首は左大臣橘卿 巻19−4270 松陰の 清き浜辺に 玉敷かば 君来まさむか 清き浜辺に 右の一首は右大弁藤原八束朝臣 巻19−4271 天地に 足らはし照りて 我が大君 敷きませばかも 楽しき小里 右の一首は少納言大伴宿禰家持 巻19−4272 井手町の街中に「六角井戸」がある。 左大臣橘諸兄は「井手左大臣」とも呼ばれ、ここ井手町に別荘を構え住んでいた。 この六角形に組まれた珍しい井戸は諸兄の館「玉井頓宮」のなごりとして今に伝わるもので「公の井戸」として語り継がれている。 傍に万葉歌碑(巻19−4270)が建つ。
聖武天皇は平城京から甕原離宮、恭仁京への途中に幾度かこの玉井頓宮を訪ねている。 『続日本紀』には、 天平十二年五月十日、天皇は右大臣の相楽の別荘に行幸された。(当時橘諸兄は右大臣) 天平十二年十二月十四日、山背国相楽郡の玉井頓宮についた。 天平十二年十二月十五日、天皇は先発して恭仁宮に行幸し、はじめてここを都と定めて、京都の造営にかかった。 ・・・ 万葉集に詠われた天平勝宝四年のことは、『続日本紀』に記載がない。 この年に東大寺の大仏開眼供養も終え、すでに天皇位も孝謙天皇に譲っているため、 私的に「諸兄、君の家で酒でも飲もう」とのんびりと過ごすために訪ねたのではないだろうか。 「家持・八束、君らも一緒にどうだ?」と誘ったのだろう。 ・・・・・ 橘諸兄 母は県犬養三千代で、初め葛城王を名乗っていたが、天平八年(736)願い出て臣籍に降下、母が賜った橘姓を名乗る。 翌年疫病が流行り、藤原氏の房前・宇合・武智麻呂・麻呂が相次いで病没したため、右大臣に進んで政権を掌握した。 恭仁京遷都、大仏造営に尽力し正一位左大臣に至ったが、次第に藤原仲麻呂に圧倒され、 天平勝宝八年(756)春二月二日辞職を申し出、天皇はこれを許した。 橘姓を賜ったことは、続日本紀天平八年十一月十一日の項に詳しいが、万葉集にも記載がある。 ・・・ 冬の十一月に、左大弁葛城王等、姓橘の氏を賜はる時の御製歌一首 橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝に霜降れど いや常葉の木 巻6−1009 右は、冬の十一月の九日に、従三位葛城王・従四位上左為王等、皇族の高き名を辞び、外家の橘の姓を賜はること已訖りぬ。 その時に、太上天皇・皇后、ともに皇后の宮に在して、肆宴をなし、すなはち橘を賀く歌を御製らし、并せて御酒を宿禰等に賜ふ。 或いは「この歌一首は太上天皇の御歌。ただし、天皇・皇后の御歌おのもおのも一首あり」といふ。 その歌遺せ落ちて、いまだ探ね求むること得ず。 今案内に検すに、「八年の十一月の九日に、葛城王等、橘宿禰の姓を願ひて表を上る。 十七日をもちて、表の乞によりて橘宿禰を賜ふ」と。 ・・・・・ 井堤寺跡 綴喜郡井手町井手 左大臣橘諸兄が、母三千代の一周忌にちなみ創建した氏寺と伝えられる。 この井堤寺には後世小野小町が出家して当寺で余生を過ごしたという伝説も残る。 同所には、諸兄の万葉歌碑が建つ。 ・・・ 賄しつつ 君が生ほせる なでしこが 花のみ問はむ 君ならなくに 巻20−4447 右の一首は、左大臣が和ふる歌 ・・・・・ 橘諸兄旧址 玉井頓宮跡といわれる六角井戸から東へ1.3`、竹薮の中に旧址碑と供養塔が建つ。 ・・・・・ 小野小町塚 井堤寺跡近く、玉津岡神社の参道脇に小町塚がある。 歌人小野小町の生涯は謎に包まれ、終焉の地は各地にあるが、 『冷泉家記』に「小町六十九才井手寺に於いて死す」とあり、この小町塚は信憑性のあるものとされる。 塚傍に歌碑も置かれる。 色も香も なつかしきかな 蛙鳴く 井手のわたりの 山吹の花 新後拾遺和歌集 |
万葉集 万葉故地 京都 井出 橘朝臣の宅 橘諸兄