山科の御陵  天智天皇陵

京都市山科区御陵上御廟野町

山科の御陵より退り散くる時に額田王が作る歌一首

やすみしし 我ご大君の 畏きや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと

昼はも 日のことごと 哭のみを 泣きつつありてや ももしきの 大宮人は 行き別れなむ

巻2−155

(車中から)

私は毎日の通勤で、JR山科駅から京都駅の間にあるこの天智陵を窓外に眺める。

住宅が密集する山科の地で、鏡山といわれるこの陵域だけは緑多く、喧騒から隔絶された森のように見える。

・・・・・

天智十年(672)十二月三日崩御。

弟大海人皇子と息子大友皇子への天皇譲位をめぐる憂いの中で亡くなった。

まさか、壬申の乱のようなことを想定していただろうか。

中大兄皇子の時代から、

大化の改新・白村江の敗戦・近江遷都など政治が大きく変貌するその渦中の先導者として激しい人生を歩んだ。

今、この山科の地で安らかに眠る。

・・・

『続日本紀』には、

文武天皇三年(699)冬十月十三日、次のように詔された。

天下の有罪の人々を赦免する。越智山陵と山科山陵とを造営しようとするからである。

十月二十日、・・・・・・山科山陵に遣わし、山陵を修造させた。

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天皇聖躬不予の時に、大后の奉る御歌一首

天の原 振り放け見れば 大君の 御寿は長く 天足らしたり  巻2−147

一書に曰はく、近江天皇聖躰不予、御病急かなる時に、大后の奉献る御歌一首

青旗の 木幡の上を 通ふとは 目には見れども 直に逢はぬかも  巻2−148

天皇の崩りましし後の時に、倭大后の作らす歌一首

人はよし 思ひ息むとも 玉葛 影に見えつつ 忘らえぬかも  巻2−149

天皇の崩りましし時に、婦人が作る歌一

うつせみし 神に堪へねば 離れ居て 朝嘆く君 放り居て 我が恋ふる君 玉ならば 手に巻き持ちて

 衣ならば 脱ぐ時もなく 我が恋ふる 君ぞきぞの夜 夢に見えつる  巻2−150

天皇の大殯の時の歌二首

かからむと かねて知りせば 大御船 泊てし泊りに 標結はましを   額田王 巻2−151

やすみしし 我ご大君の 大御船 待ちか恋ふらむ 志賀の辛崎  舎人吉年 巻2−152

大后の御歌一首

鯨魚取り 淡海の海を 沖放けて 漕ぎ来る船 辺付きて 漕ぎ来る船 沖つ櫂 いたくな撥ねそ

 辺つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の 夫の 思ふ鳥立つ  巻2−153

石川夫人が歌一首

楽浪の 大山守は 誰がためか 山に標結ふ 君もあらなくに  巻2−154

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