宇治川

宇治市宇治

柿本朝臣人麻呂、近江の国より上り来る時に、宇治の川辺に至りて作る歌一首

もののふの 八十宇治川の 網代木に いさよふ波の ゆくへ知らずも  巻3−264

宇治はもちろん万葉集に詠われた地名であるが、

「宇治」というと最初に想い浮ぶのは、光源氏亡きあとの舞台となった源氏物語宇治十帖という人も多いだろう。

いや、もっと古く地名由来にもあたる「菟道稚郎子」、仁徳天皇に帝位を譲るため自殺した弟を

祀る宇治神社・宇治上神社、さらには藤原道長・頼通の栄華を伝える平等院などなどであろう。

『平家物語』の宇治川合戦かもしれない。源義経だ。

宇治は歴史がいっぱい詰まった街で、社寺や史跡を廻っていると、どの時代の出来事なのか分らなくなってしまう。

巻1−7で詠う額田王は、

「宇治の宮処の仮廬に宿れりし」時、平等院にも立寄ったのだろうか、と訳の分らないことを思ってしまったりする。

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額田王が歌

秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治の宮処の 仮廬し思ほゆ  巻1−7

・・・

宇治市宇治下居に「下居神社」がある。社地が巻1−7で詠われる「仮廬」の伝承地といわれる。

皇極天皇が行幸の途中に行宮を営んだ跡地ということだ。

額田王が詠んだ歌であるが、「宇治の宮」とは菟道稚郎子がここに住んでいたという宮跡の伝承を踏まえて詠んだものか、ともいわれる。

下居神社、境内に歌碑がある。

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宇治神社・宇治上神社

宇治若郎子の宮処の歌一首

妹らがり 今木の嶺に 茂り立つ 夫松の木は 古人見けむ  巻9−1795

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「宇治若郎子の宮処の歌」であるが、歌中には「今木の嶺」と詠まれていて、

前述の下居の地よりも現在宇治神社・宇治上神社が建つ地、その背後の仏徳山辺りの方が宮処として相応しいような気がする。

宇治神社

宇治上神社

仏徳山山頂の展望台にはこの宮処の万葉歌碑があり、登り口には「石田の社」で紹介した巻13−3236の歌碑が立つ。


仏徳山山頂

仏徳山登り口

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宇治川を詠う万葉歌と歌碑

宇治川は 淀瀬なからし 網代人 舟呼ばふ声 をちこち聞こゆ  巻7−1135

ちはや人 宇治川波を 清みかも 旅行く人の 立ちかてにする  巻7−1139

もののふの 八十宇治川の 網代木に いさよふ波の ゆくへ知らずも  巻3−264


朝霧橋東詰の川岸

川岸の観光センター前

中之島・橘島

新聞の切り抜きで紹介するが、

万葉の当時、琵琶湖を流れ出た瀬田川は途中で宇治川と名を変え、宇治の辺りを流れ過ぎると、

巨椋池といわれる大きな池に流れ入っていた。

この池、今は完全に無くなり住宅地と農地に変貌している。

昭和の初め頃にはまだ名残の池が各所に見られたという。

長い年月をかけての治水や干拓で変貌したもので、万葉当時の景観を想像することは難しい。

万葉歌に「名木の川」と詠まれている歌がある。

「久世郡那紀郷」という古い地名がありこの巨椋池の東南辺りかと云われる。現在の宇治市伊勢田町の辺りになる。

名木の川とは、この巨椋池に注ぐ木津川とも、宇治川の支流とも云われるが、今はもう定かにできない。

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名木川にして作る歌

衣手の 名木の川辺を 春雨に 我れ立ち濡ると 家思ふらむか  巻9−1696

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名木川の万葉歌碑がある。


宇治市伊勢田町 伊勢田小学校

伊勢田町砂田 児童公園

左同所 旧碑

宇治市伊勢田町には名木という地名が残る。

何か証しの写真をと街中を歩いていると「ラーメン 名木」という店があった。

万葉故地を訪ね、ラーメン屋の看板に感激したのは初めてである。

「巨椋の入江」と詠う万葉歌もある。

宇治川にして作る歌

巨椋の 入江響むなり 射目人の 伏見が田居に 雁渡るらし  巻9−1699

歌碑がある。久世郡久御山町田井の荒見神社。この田井が「伏見が田居」であるかは不詳。

久御山町は「巨椋池」の南側にあたるのだろうか。

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