和束杣山 活道山

京都府相楽郡和束町白栖

恭仁京から北方の山を望む

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十六年甲申の春の二月に、安積皇子の薨ぜし時に、内舎人大伴宿禰家持が作る歌

かけまくも あやに畏し 言はまくも ゆゆしきかも 我が大君 皇子の命 万代に 見したまはまし 大日本 久邇の都は

うち靡く 春さりぬれば 山辺には 花咲きをゐり 川瀬には 鮎子さ走り いや日異に 栄ゆる時に およづれの

たはこととかも 白栲に 舎人よそひて 和束山 御輿立たして ひさかたの 天知らしぬれ こいまろび ひづち泣けども 為むすべもなし

  巻3−475

我が大君 天知らさむと 思はねば おほにぞ見ける 和束杣山  巻3−476

はしきかも 皇子の命の あり通ひ 見しし活道の 道は荒れにけり  巻3−479

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安積皇子墓

安積皇子は、17才の若さで亡くなった。

聖武天皇のただ一人の皇子で、当時、藤原氏所出の光明皇后の子阿倍内親王が異例の女性皇太子であり、

代わり立太子の期待があったといわれる。

橘諸兄、大伴家持は皇子の後盾であった。皇子主催の宴も行われていた。

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安積親王、左少弁藤原八束朝臣が家にして宴する日に、内舎人大伴宿禰家持が作る歌一首

ひさかたの 雨は降りしけ 思ふ子が やどに今夜は 明かして行かむ  巻6−1040

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『続日本紀』は、次のように記す。

「天平十五年正月十一日、聖武天皇は難波宮に行幸された。

この日、安積親王は脚の病のため、桜井頓宮から恭仁京に還った。

正月十三日、安積親王が薨じた。時に年は十七歳であった。

安積親王は聖武天皇の皇子であり、母は夫人・正三位の県犬養宿禰広刀自で、従五位下・県犬養宿禰唐の女である。

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藤原氏との政争の内、暗殺説もささやかれたという。

安積皇子の墓は、和束町白栖にある。

街中からこんもりとした墳丘は見える。周囲には茶畑が広がり、この墳丘墓も周りが茶畑になっている。

歌中に出てくる「活道山」は、これとは定められないが、恭仁京付近の山であろう。

和束町白栖の墳丘墓近くには、活道ヶ丘公園があり、巻3−476の万葉歌碑がある。

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