答志の崎  答志島

三重県鳥羽市答志町

伊勢の国に幸す時に、京に留まれる柿本朝臣人麻呂が作る歌

釧着く 答志の崎に 今日もかも 大宮人の 玉藻刈るらむ  巻1−41

答志島から望む

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鳥羽の港から答志島に渡った。船はおよそ30分程で答志港に着く。

万葉に詠われた「答志の崎」がこの答志島とは限定できない。

昔の志摩の国は、現在の鳥羽市辺りを中心とした答志郡、阿児町辺りを英虞郡と呼んでいた。

鳥羽の海岸のどこかを指すものであろうが、今「答志」の名を残すこの島に万葉の頃を偲ぶのは間違いではないし、

答志の名を残してくれていることにありがとうと言おう。

答志の港に近い八幡神社に万葉歌碑がある。

答志の港

漁業の島、漁船が多いこんな風物がうれしい

八幡神社

万葉歌碑のある神社。伊勢神宮の影響が大きいのだろう、社殿は神明造。

鳥居傍にある万葉歌碑社殿

美多羅志神社

社の掲示に

「御夫婦で、メス・オスの鮑をお供えして願わくは目の美しい美男美女の子の授かるよう祈祷しましょう」とある。

鮑のお供えって贅沢な神さんやな、と思ったのは貧乏性の私だけかな。

刺身で食べる方が・・・なんて思っているとバチが当るぞ。

さすが漁業の島、獲れた鮑を神様にお供えする、感謝の気持ちですよね。

そして夫婦は子授けを祈願する。目の美しい子をという。

海に潜る海士海女が、たくさんの魚介を見つけられるきれいな目ってことだろうな。

美多羅志神社社殿 ここも神明造

西行法師『山家集』

伊勢の答志と申す島には、小石の白の限り侍る浜にて、黒はひとつもまじらず、むかひて菅島と申すは、黒の限り侍るなり

とあって、四首の歌を詠う。その一つに

崎志摩の 小石の白を 高波の 答志の浜に うち寄せてける  西行

島内に歌碑がある。答志島の白石、菅島の黒石は本当でしょうか。

西行法師の歌碑「蘇民将来子孫家」

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蘇民将来子孫家

島内の家々の門に「蘇民将来子孫家」と書かれた護符の注連縄が飾られている。

私は住まいが京都に近いので、京都の祇園祭でいただく「ちまき」を思い出した。

ちまきには「蘇民将来子孫也」と書かれた護符が付く。その謂れは、京都八坂神社の祭神牛頭天王の逸話として伝わる。

牛頭天王は天竺の祇園精舎の守護神、日本では素盞嗚命にあたる。

命が南海に旅したときだった。日が暮れて、一夜の宿を土地の蘇民将来・巨亘将来の兄弟に請うた。

この申し出に裕福な巨亘は断り、貧しい蘇民が受けた。

数年後、この地を再訪した命は蘇民の家族に茅の輪を付けさせ、付けていないものを殺してしまった。

「後の世に疫気あらば、汝、蘇民将来の子孫といって、茅の輪をもちて腰につけたる人はまぬかれむ」

京都・祇園祭のちまきは、災厄が家に入らないようにと門口に下げるが、同じ習俗がここ答志島に残る。

余談だが、命が訪ねた南海の地というのが広島県福山市辺りといって、福山市の新市町天王にある素盞嗚神社がこの護符の発祥地とあった。

茅の輪くぐりの風習は、夏越しの神事として各地の神社で行われているが、

この「蘇民将来子孫」の護符は、(私は)京都と広島とこの三重で見かけた。

三重県度会郡二見町の松下社には蘇民社があり護符を配布するとある。

ここ答志島で蘇民将来の子孫に出会えたので書き留めた。ただしこの護符、どこの社のものか確認できていない。

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九鬼嘉隆 初代鳥羽城主

九鬼嘉隆墓(胴塚)血洗い池九鬼嘉隆墓(首塚)

九鬼嘉隆は初代鳥羽城主で、水軍の将として活躍したが、関が原の戦いで、石田光成率いる西軍につき戦いに敗れた。

ここ答志島に戻り和具の地の洞泉庵で自刃した。

ここに残る胴塚は徳川家康の東軍に加わった子の守隆が建立したもの(後の再建ではあるが)。

家・一族を絶やさぬために親子が東西に分かれて戦うという悲しい選択で父側は敗れた。

自刃した嘉隆の血に染まった刀をこの池で洗ったという。首部は家康実検のため伏見に供され、後に持ち帰られて首塚として葬られた。

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