美禰良久 三井楽 長崎県五島市三井楽町 高浜海岸 高崎鼻海岸 柏崎海岸 ・・・・・ 白水郎・荒雄 志賀島を発った荒雄は、ここ美禰良久で対馬へ運ぶ防人用の食料などの荷を整え出航した。そして、還らぬ人となった。 『万葉集』は「筑前の国の志賀の白水郎の歌十首」巻16−3860〜3869に詠う。左註にこの地「美禰良久の崎より船を発だし」と記す。 ・・・ 右は、神亀年中に、大宰府筑前の国宗像の郡の百姓、宗形部津麻呂を差して、対馬送粮の船の柁師に宛つ。 時に、津麻呂、滓屋の郡志賀の村の白水郎、荒雄がもとに詣りて、語りて曰はく、「我れ小事有り。けだし許さじか」といふ。 荒雄答へて曰はく、「我れ郡を異にすといへども、船を同じくすること、日久し。志は兄弟より篤く、殉死することありとも、あにまた辞びめや」といふ。 津麻呂曰はく、「府の官、我れを差して、対馬送粮の船の柁師に宛てたれど容歯衰老し、海路にあへず。 ことさらに来りて祗候す。願はくは、相替ることを垂れよ」といふ。ここに、荒雄許諾し、つひにその事に従ふ。 肥前の国松浦の県の美禰良久の崎より船を発だし、ただに対馬をさして海を渡る。 すなはち、たちまちに天暗冥く、暴風は雨を交へ、ついに順風なく、海中に沈み没りぬ。 これによりて、妻子ども犢慕にあへずして、この歌を裁作る。 或いは、筑前の国の守、山上臣億良、妻子が傷みに悲感び、志を述べてこの歌を作るといふ。 ・・・・・・・ 博多港深夜0時発のフェリーに乗り、五島列島福江を目指した。早朝五島の島々を縫うように船は進み、9時頃福江港に着いた。 荒雄はなぜここ福江島の三井楽に寄航したのだろう。 現在の船でも9時間かけてようやくの福江島だ。しかも方角が違う。 壱岐・対馬には志賀島から一直線北上するルートがあるはずなのに。 ここ三井楽が物資の集積地という説も聞いたが、大宰府も近い博多港の方がもっと物資は容易に手に入っただろう。疑問は残る。 福江島の西北に三井楽町がある。 三井楽町の北端が柏崎海岸・高崎鼻海岸で、この辺りが「美禰良久の崎」だろう。 溶岩のような黒い岩が剥き出しの海岸でけっして良港とはいえないようだ。 ・・・ 白良ヶ浜に「荒雄」の万葉歌碑がある。 筑前の国の志賀の白水郎の歌 大君の 遣はさなくに さかしらに 行きし荒雄ら 沖に袖振る 巻16−3860
・・・・・・・ ここ三井楽は遣唐使の日本最後の寄港地でもある。 『肥前風土記』に、「遣唐の使は、美祢良久の崎に到り此より発船して西を指して渡る」とある。 遣隋使・遣唐使は初め朝鮮半島の西側を北上するコースを採っていたが、 半島の諸国や海賊とのトラブルを避けるため東シナ海をつききるコースを採るようになった。 うまくいけば10日足らずで横断できるが、非常に危険なコースでもあった。 空海が第16次(804)遣唐使として入唐、2年後の第17次で帰国している。柏崎海岸には空海の「本涯を辞す」の碑が建つ。 決死の渡航であった。 同所には巻9−1791の歌碑も建つ。 この歌は天平五年(733)夏四月三日に難波津を出航した遣唐使にその親母が贈った歌であるが、本国最後の地にその母の想いを標す。 天平五年癸酉に、遣唐使の船難波を発ちて海に入る時に、親母の子に贈る歌 旅人の 宿りせむ野に 霜降らば 我が子羽ぐくめ 天の鶴群 巻6−1791
遣唐使の遺跡 ふぜん河・・・この河の水は遣唐使の船の乗組員の飲料水として利用されたもの。河と云っても泉のこと。 岩嶽神社・・・遣唐使船がここ柏に寄港した承和5年、遣唐使の守護の任にあった者が順風を待つ中病死した。その霊を祀った祠。
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