雷の丘 奈良県高市郡明日香村雷 天皇、雷の岳に幸す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬らせるかも 巻3−235 雷丘 中央に畝傍山 遠く右奥に二上山 これが「雷丘」?と最初にここを訪ねた人は思うだろう。「天雲の雷の上に」ってどこのこと? これが国見の歌としたら、近くにもっと見晴らしのよい甘樫の丘や、飛鳥坐神社の小丘があるのにと思うのだが。 私はこの歌の天皇は天武天皇でも文武天皇でもなく、持統天皇だと思う。 文武天皇に譲位する少し前で、年齢も50歳前後。 「もう足腰も弱ってきたし、今日の国見はそこの雷丘でええわ!」と、この標高20bにもならない「雷の岳」で ベンチに座りながら国見したと想像している。 そんなことは正史にも、逸話にもどこにも書いていないが。 それでは、と人麻呂はめちゃオーバーに詠っておこうと思ったに違いない。 (もっとも国見の歌というのはこのようにオーバーに詠って国土を褒め、五穀豊穣を祈ったという。) ・・・・・ 『日本霊異記』に「雷を捉ふる縁」と題した雷丘の命名起源をいう話がある。 少師部の栖軽すがるという、雄略天皇の「肺脯の侍者なり」とある家来が、 うっかり天皇が后といいことしているところに参入してしまう。 天皇は怒って雷を捕まえて来いと難題をいう。 栖軽は「請けてたてまつらむ」といって豊浦寺と飯岡との間に落ちた雷を持ち帰った。 雷は天皇の前で光り輝いた。驚いた天皇は落ちたところに返して来いという。そこを「今に雷の岡といふ」。 後、栖軽が亡くなったとき、天皇は忠臣を偲び、ここに墓を作り「取雷栖軽之墓」と墓標を立てた。 これを見た雷は、怨んでこの墓標に鳴り落ちて、墓標を踏み潰した。 が、その墓標の裂け目に足を挟まれて動けなくなってしまった。 天皇は、雷を逃がしてやり、新たに「生之死之捕雷栖軽之墓」、生きても死んでも雷を捕まえた栖軽という墓標を立てた。 「いはゆる古き京の時に、名づけて雷の岡といふ語の本、これなり。」 ・・・・・ 奈良文化研究所は、明日香村の雷丘に、五世紀後半の古墳があったとみられると発表した。2005年 『日本霊異記』に記された説話と何らかの関連があるかもしれない、としている。 同研究所は雷丘を初めて発掘し、 埴輪の破片数百点を発見、古墳の墳丘や石室などは、十五世紀前半ごろの城を造る工事などで削られて残っていない。 一辺十b程度の方墳ではないか、とみている。 ・・・ この古墳、少師部の栖軽かもしれない。 古墳の規模が天皇の腹心の墓としては小さい、と研究所は否定的な見方しているけど、 栖軽の墓でもよいとした方が夢があっていいなぁ。 それと、雷丘って、室町時代に城を造るためいろいろ工事して削ってあるらしい。 持統天皇はもう少し立派な雷丘で国見したのかもしれない。 私も雷丘の頂上に登ってみた。なるほど山城跡のように削られている。 それでもちょっとだけど高所なので、明日香の国見、持統天皇の気分にはなれるものだ。 |
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