二上山  大津皇子墓

葛城市当麻

大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時、大伯皇女の哀しび傷む御作歌二首

うつそみの 人にある我れや 明日よりは 二上山を 弟背と我が見む  巻2−165

磯の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が 在りと言はなくに  巻2−166

大津皇子墓(二上山雄山山頂)

『日本書紀』は大津皇子の謀叛をつぎのように語る。

冬十月二日、皇子大津の謀叛が発覚して、皇子を逮捕し、合わせて皇子大津に欺かれた三十余人を捕らえた。

三日、皇子大津は訳語田の舎で死を賜った。時に年二十四。

妃の山辺皇女は髪を乱し、はだしで走り出て殉死した。見る者は皆すすり泣いた。

皇子大津は天武天皇の第三子で、威儀備わり、言語明朗で天武天皇に愛されておられた。

成長されるに及び有能で才学に富み、とくに文筆を愛された。この頃の詩賦の興隆は、皇子大津に始まったといえる。

二十九日、詔して、「皇子大津は謀叛を企てた。これに欺かれた官吏や舎人は止むを得なかった。

今、皇子大津はすでに滅んだ。従者で皇子に従った者は、みな赦す。」といわれた。

十一月十六日、伊勢神宮の斎宮であった皇女大伯は、同母弟大津の罪により、任を解かれ京師に帰った。

・・・・・

これより先、大津皇子は伊勢にいる大伯皇女を密かに訪ねている。

持統天皇・草壁皇子側の仕込まれた罠に気付き、姉の下に危機迫ることを伝えにいったのか、

あるいは、もはやの別れを伝えたのか。

正史は語らないが、『万葉集』がその一端を語る。

・・・

大津皇子、竊かに伊勢の神宮に下りて、上り来る時に、大伯皇女の作らす歌二首

我が背子を 大和へ遣ると さ夜更けて 暁露に 我が立ち濡れし  巻2−105

ふたり行けど 行き過ぎかたき 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ  巻2−106

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