長屋王墓 吉備内親王墓

生駒郡平群町梨本

長屋王墓

吉備内親王墓

『続日本紀』は次のように記す。
神亀六年(729)二月十日、「左大臣の長屋王は、密かに左道を学び国家を倒そうとしている」という密告をするものがあった。天皇はその夜、藤原宇合らが率いる兵で長屋王の邸を包囲させた。
翌十一日、舎人親王、新田部親王、藤原武智麻呂らに罪を追及し訊問させた。
十二日、長屋王を自殺させた。その妻の吉備内親王と四人の子どもも自ら首をくくって死んだ。
十三日、長屋王と吉備内親王の遺骸を生駒山に葬った。
吉備内親王には罪がないから例に準じて葬送せよ。ただ笛や太鼓による葬楽はやめよ。長屋王は犯した罪により誅せられるものであるから罪人であるとはいえ、皇族なのでその葬り方を醜いものにしてはならない。
長屋王は天武天皇の孫で高市親王の子であり、吉備内親王は日並知皇子尊(草壁皇子)の娘である。
正史は、長屋王を高い位におごり王位を奪おうとした謀反の王と伝える。真相はわからないままであるが、ある説では、藤原不比等の娘である安宿姫(光明子)を聖武天皇の皇后にしようとした藤原氏が、長屋王の強い反対にあってうまく進まず、陰謀によって排斥したのだと云う。
9年後の天平十年(738)七月七日の条に、
大伴宿禰子虫が中臣宮処連東人を刀で以て斬り殺した。子虫ははじめ長屋王に仕えて頗る好遇を受けていた。たまたまこの時、隣り合わせの寮の役に任じられていた。政務の隙に一緒に囲碁をしていて、話が長屋王のことに及んだ時、子虫はひどく腹を立て東人を罵り、遂に刀を抜いてこれを斬り殺してしまった。東人は長屋王のことを事実を偽って告発した人物である。
正史も陰謀説を認めるような内容である。事実、亡くなった1週間後の二月十八日には、長屋王の兄弟姉妹と子孫、およびそれらの妾のうち連座して罰せられるべき者たちは男女を問わずすべて赦免する、とある。
作宝楼のこと
長屋王は平城京の北、佐保の地に作宝楼という施設を造り、外国からの使節を迎えて漢詩を作る宴を開き、さらには季節ごとに盛大な詩歌の宴を開くという文人宰相であった。この宴には、第7次遣唐使の山上億良や上述の長屋王事件に関与した藤原房前や藤原宇合も参加している。一方で万葉歌も遺すが、長屋王は漢詩、漢文による大陸文化の導入発展に寄与した「作宝楼文化」の主宰でもあった。
鑑真和上来日のこと
逸話に、仏教を崇敬する長屋王は遣唐使に託して千の袈裟を中国の僧に贈った。その袈裟の縁には四言の漢詩を縫い付けたという。「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」の漢詩を目にした鑑真は来日を決意したという。数度の渡航に失敗し、さらには失明にも及ぶが、天平勝宝六年(754)に来日、東大寺を授戒の道場とし唐招提寺を戒律の道場として、日本の律宗の開祖となった。
『万葉集』に載る長屋王の歌五首

宇治間山 朝風寒し 旅にして 衣貸すべき 妹もあらなくに  巻1−75

右の一首は長屋王

長屋王が故郷の歌一首

我が背子が 古家の里の 明日香には 千鳥鳴くなり 妻待ちかねて  巻3−268

長屋王、馬を奈良山に駐めて作る歌二首

佐保過ぎて 奈良の手向けに 置く幣は 妹を目離れず 相見しめとぞ  巻3−300

岩が根の こごしき山を 越えかねて 音には泣くとも 色に出でめやも  巻3−301

長屋王が歌一首

味酒 三輪の社の 山照らす 秋の黄葉の 散らまく惜しも   巻8−1517

・・・・・

長屋王墓、吉備内親王墓は、平群町梨本の今は新興の住宅地となった街中にある。

  無念の死を遂げたふたりがそば近く、並ぶように眠る。

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