磐余の池

奈良県橿原市東池尻町

大津皇子、被死らしめらゆる時、磐余の池の堤にして涙を流して作りましし御歌一首

百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ  巻3−416

橿原市東池尻町の御厨子観音の東、今は稲田が広がる。

ここに万葉の当時は池があったという。

磐余の池である。

天武天皇が亡くなったのが9月9日、葬儀も終らぬ10月の2日、

草壁皇子に対する謀反の罪で大津皇子は逮捕された。

翌日の3日、訳語田の舎で処刑される。

母が違うだけの兄弟なのに、いや兄弟が故にこのような悲劇を招かなければならなかった。

大津の母大田皇女は、草壁の母鵜野皇女の姉、大田皇女はすでに亡くなり、

今皇后として実権を握るのは妹鵜野皇女、姉妹である母親たちがこの大津皇子の運命を定めてしまっていた。

伊勢にいる大津の姉大伯皇女はこの悲報をどんな気持ちで聞いたのであろうか。

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『懐風藻』は大津皇子をつぎのように紹介する。

皇子は浄御原の帝の長子なり。

状貌魁梧、器宇峻遠、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。

壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。

性すこぶる放蕩にして、法度に拘らず、節を降して士を礼す。これによりて人多く附託す。・・・・・・

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大津皇子はこの懐風藻に辞世の漢詩を遺す。

五言 臨終 一絶

金 烏 臨 西 舎鼓 声 催 短 命泉 路 無 賓 主此 夕 誰 家 向

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訳語田の舎

『日本書紀』持統天皇朱鳥元年冬十月二日、「皇子大津を訳語田の舎に賜死む」とある。

訳語田の舎は磐余池の近くと思われる。

桜井市戒重に春日神社があり、この神社を昔から訳語田明神と呼ぶ。

敏達天皇の訳語田幸玉宮の推定地でもある。

この辺りが訳語田、大津皇子の舎はあった。そしてここで死を賜った。

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春日神社  桜井市戒重

御厨子観音近くに、万葉歌碑がある。

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吉備池

桜井市吉備に吉備池がある。

今は用水池として改修されていてここを「磐余の池」とはとても言い難い。もちろん古池を改修したのかもしれないが。

ここも磐余の地、ここから眺める四方の山々、

鴨浮ぶ池を偲び、辞世の歌を遺して死に臨んだ大津皇子の心境に少しでも触れることができるかもしれない。

吉備池と、すぐ近くの春日神社境内に万葉歌碑がある。

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大津皇子、竊かに伊勢の神宮に下りて、上り来る時に、大伯皇女の作らす歌二首

我が背子を 大和へ遣ると さ夜更けて 暁露に 我が立ち濡れし  巻2−105

ふたり行けど 行き過ぎかたき 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ  巻2−106

大津皇子薨りましし後、大伯皇女伊勢の斎宮より京に上る時の御作歌二首

神風の 伊勢の国にも あらましを 何しか来けむ 君もあらなくに  巻2−163

見まく欲り 我がする君も あらなくに 何しか来けむ 馬疲るるに  巻2−164

大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時、大伯皇女の哀しび傷む御作歌二首

うつそみの 人にある我れや 明日よりは 二上山を 弟背と我が見む  巻2−165

磯の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が 在りと言はなくに  巻2−166

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