奈良の明日香

奈良市・「ならまち」

元興寺  奈良市中院町

南都七大寺および十五大寺(延喜式)に数えられる元興寺は、

奈良県明日香村の飛鳥寺(法興寺・元興寺ともいう)が平城京遷都に伴って奈良に別院を建立したことに始まる。

『続日本紀』霊亀二年五月十六日に、初めて元興寺を左京六条四坊に移し建てた。

とあるが、位置から考えるとこれは現在の大安寺のことのようである。

さらに、『続日本紀』養老二年九月二十三日に、法興寺を新京へ移転した、とあり、これが当寺のことと思われる。

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十年戊寅に、元興寺の僧が自ら嘆く歌一首

白玉は 人に知らえず 知らずともよし 知らずとも 我れし知れらば 知らずともよし  巻6−1018

右の一首は、或いは「元興寺の僧、独覚にして多智なり。いまだ顕聞あらねば、衆諸狎侮る。

これによりて、僧この歌を作り、自ら身の才を嘆く」といふ。

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この歌は現在の私たちにも通じる歌で、

「白玉」と自負して会社に入ったが、理解してくれる上司もなく、仲間と赤ちょうちんで会社や上司を肴に自棄酒を飲んでいるうちに、

いつのまにか定年を迎えてしまった。かく云うのは、だあれ。

元興寺境内に歌碑がある。

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瑜伽神社  奈良市高畑町

元興寺の東北300bほどのところに鎮座する。

平城遷都に際し元興寺とともに奈良に移された飛鳥の神奈備で、元興寺禅定院の鬼門除鎮守社として今宮と称した。

中世、興福寺の鎮守社となり、瑜伽と改名した。

奈良の明日香

遷都後、元興寺や今宮(瑜伽神社)の移転により、この辺りを「奈良の明日香」と呼んだという。

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大伴坂上郎女、元興寺の里を詠む歌一首

故郷の 明日香はあれど あをによし 奈良の明日香を 見らくしよしも  巻6−992

瑜伽神社境内にはこの歌の歌碑がある。

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元興寺・塔跡  奈良市芝新屋町

元興寺はどうも2ヶ所に分かれているようで、上述は元興寺・極楽坊というらしい。この極楽坊から南に行くと塔跡がある。

今は礎石を残すのみであるが、大きな五重塔があった。安政6年(1859)に焼失した。

同歌の歌碑がある。(右写真)

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奈良町庚申堂

元興寺・塔跡近くに「庚申堂」がある。庚申縁起によれば

文武天皇の御代(700年)に疫病が流行し、人々が苦しんでいたとき、

元興寺の高僧護命僧正が仏様にその加護を祈っていると、1月7日に至り、青面金剛が現れ

「汝の至誠に感じ悪病を払ってやる」といって消え去った。間もなく悪病はおさまった。

この感得の日が「庚申の年」の「庚申の月」そして「庚申の日」であったという。

それ以来、人々はこの地に青面金剛を祀り、

悪病を持ってくるといわれる「三尸(さんし)の虫」を退治して健康に暮らすことを念じて講をつくり、

仏様を供養したとこの地に伝えられている。

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奈良町資料館が近くにあり、庚申さんのお守り「身代り申」がいっぱい吊ってある。

この身代り申を授かって家の中にも吊り下げておくと、悪病から守ってくれるというご利益のあるもの。

資料によると、この身代り申のルーツは敦煌にあって、シルクロードを通って奈良にきたという。

敦煌の石窟の祭壇にかける祭具(唐代の垂れ幕)にこれと全く同じものが吊るされていたという。

三蔵法師も旅の道中のお守りにこの申のぬいぐるみを馬の鞍につけていたといい、

それが後世、法師を守る孫悟空の物語になったとも伝えられている。

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この資料館の入口に万葉歌碑がある。

今昔工芸美術館(閉館)から移動されたものだが、ちょっと粗雑に扱われているのが残念である。これじゃ、普通の石ころ。

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