奈良の都 平城京 奈良市二条大路 大宰少弐小野老朝臣が歌一首 あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり 巻3−328 あをによし 奈良の都に たなびける 天の白雲 見れど飽かぬかも 巻15−3602 平城京 和銅三年(710)から延暦三年(784)までの奈良の都。 天武・持統天皇の時から準備してきた律令が出来上がった。(大宝令・701年施行、大宝律・702年施行) 唐のような立派な中央集権国家を造ろうとみんなでがんばった。 あらためて遣唐使も派遣した。(701年粟田真人らを遣わす) なんでも見て来い、吸収して来いといわれた。律令制度も最終のチェックだ。 建物見て来い、道路見て来い、長安のような都を造るのだ。 仏教も国の支えだ。最新の仏教を学んでくること。 貨幣経済も学べ、和銅開珎造らなあかんし。(708年発行) ・・・ 710年、元明天皇は奈良遷都を宣した。以後8代の天皇の治世の都となる。 ・・・ 藤原不比等を中心に新しい政治改革がどんどん進められていく。 『古事記』が完成した(712年)。 中国に倣って国史の編纂も進め、『日本書紀』が完成した(720年)。これを待つかのように、不比等亡くなる。 そして不比等の息子4人の台頭である。 それをよからぬと思っていた大伴旅人は九州・大宰府へ転勤させられてしまった。 この旅人の大事な辞令を国史は記さない。神亀年間(724〜729年)であろう。 旅人はその時60歳くらい、そんな歳で九州へ転勤って、現代の会社でもそこまではせんで。 案の定、藤原家によからぬとの思いを持っていた長屋王は、殺されてしまった(729年)。旅人は九州にいた。 ・・・ 帥大伴卿が歌 我が盛り またをちめやも ほとほとに 奈良の都を 見ずかなりなむ 巻3−331 ・・・ 旅人が大納言に任じられて都に戻れたのは730年、聖武天皇の周りはがっちりと藤原一族で固められた後だった。 翌731年大伴旅人歿。 ・・・・・ 万葉歌碑
・・・・・ 聖武天皇の天平九年(737)、奈良の都で天然痘が大流行、藤原4兄弟もつぎつぎに亡くなる。 『万葉集』の編纂にかかわったかもと云われる橘諸兄が右大臣となった。いよいよ『万葉集』の諸兄と家持の時代である。 ところが、そのとき大宰府にいた藤原宇合の息子・藤原広嗣が政治に不満を持って反乱を起こした(740年)。 うろたえた聖武天皇は突然東国へ旅すると出かけてしまった。広嗣はすぐに鎮圧されて殺されるが、 天皇は都を恭仁に遷したり、紫香楽を都にすると云い出したり、やっぱり難波に行くといったり、もう周りの諸兄や家持は大変。 恭仁京遷都のときは、奈良の都の大極殿や回廊にいたるまで解体して恭仁へ運ばれてしまった。 『万葉集』はその廃墟となっていく奈良の都を詠う。 ・・・ 寧楽の京の荒墟を傷惜みて作る歌三首 紅に 深く染みにし 心かも 奈良の都に 年の経ぬべき 巻6−1044 世間を 常なきものと 今ぞ知る 奈良の都の うつろふ見れば 巻6−1045 石つなの またをちかへり あをによし 奈良の都を またも見むかも 巻6−1046 ・・・・・ 天平十七年(745)、 いろいろあったけど、やっぱり奈良がええなあ、ここに大仏造ろうと、聖武天皇は奈良の都にお戻りになったのである。 |
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