志貴皇子 田原西陵

奈良市田原春日野町

霊亀元年歳次乙卯の秋の九月に、志貴親王の薨ぜし時に作る歌一首 并せて短歌

梓弓 手に取り持ちて ますらをの さつ矢手挟み 立ち向ふ 高円山に 春野焼く 野火と見るまで

 燃ゆる火を 何かと問へば 玉桙の 道来る人の 泣く涙 こさめに降れば 白栲の 衣ひづちて 立ち留まり

 我れに語らく なにしかも もとなとぶらふ 聞けば 哭のみし泣かゆ 語れば 心ぞ痛き 天皇の

 神の御子の いでましの 手火の光ぞ ここだ照りたる  巻2−230

短歌二首

高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに  巻2−231

御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに  巻2−232

右の歌は、笠朝臣金村が歌集に出づ。

或本の歌に曰はく

高円の 野辺の秋萩 な散りそね 君が形見に 見つつ偲はむ  巻2−233

御笠山 野辺ゆ行く道 こきだくも 荒れにけるかも 久にあらなくに  巻2−234

奈良市街から東に、高円山を越えると田原春日野町に至る。

そこに、田原西陵・春日宮天皇陵はある。

春日宮天皇とは、天智天皇の第7皇子志貴皇子のこと、

実際に即位したのではなく、没後息子の白壁王が光仁天皇として即位(宝亀元年・770)した後、

春日の宮に天の下知らしめす天皇と追尊した。田原天皇とも呼ばれた。

志貴皇子は天智天皇の皇子として、壬申の乱後は政治から意図して遠ざかったといわれる。

霊亀元年(715)(続紀には霊亀二年)に亡くなったときは、天智天皇の皇子として笠金村の挽歌に詠われるが、

それから55年後に息子白壁王が61歳で天皇として即位、

ここに眠る志貴皇子が、天皇の父になるとは、まさか自身が天皇と呼ばれているとは知らない。

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万葉集には秀歌6首を詠う。

・・・

明日香の宮より藤原の宮に遷りし後に、志貴皇子の作らす歌

采女の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く  巻1−51

慶雲三年丙午に、難波の宮に幸す時 志貴皇子の作らす歌

葦辺行く 鴨の羽がひに 霜降りて 寒き夕は 大和し思ほゆ  巻1−64

志貴皇子の御歌一首

むささびは 木末求むと あしひきの 山のさつ男に あひにけるかも  巻3−267

志貴皇子の御歌一首

大原の このいち柴の いつしかと 我が思ふ妹に 今夜逢へるかも  巻4−513

志貴皇子の懽の御歌一首

石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも  巻8−1418

志貴皇子の御歌一首

神なびの 石瀬の社の ほととぎす 毛無の岡に いつか来鳴かむ  巻8−1466

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奈良豆比古神社  奈良市奈良阪町

祭神は、志貴親王、平城津彦神、春日王の三座。

光仁天皇が奈良山春日離宮に父志貴皇子を祀ったのがこの神社といわれる。

平城津彦神は「神社明細帳」に「奈良山之神歟」とありこの地の産土神、春日王は志貴皇子の子である。

延喜式神名帳の添上郡「奈良豆比古神社」とされる。

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