額田王終焉の地

奈良県桜井市粟原

吉野の宮に幸す時に、弓削皇子が額田王に贈与る歌一首

いにしへに 恋ふる鳥かも 弓弦葉の 御井の上より 鳴き渡り行く  巻2−111

額田王、和へ奉る歌一首  倭の京より進り入る

いにしへに 恋ふらむ鳥は ほととぎす けだしや鳴きし 我が恋ふるごと  巻2−112

粟原寺跡

桜井市忍阪から2`余り山間に入ったところ、音羽山の麓に粟原寺址はある。

この地が額田王の終焉の地という。

詳しいことは跡地に立つ説明文を引用する。

・・・・・

「当地には額田王の終焉の地という伝承が遺されています。

さすれば、国宝粟原寺三重塔露盤の銘文にある比売朝臣額田が、その人であるかも知れません。

この事は史的考証ではなく、詩的確信です。

数奇な運命を辿った彼女は、天武帝崩後の複雑な立場の拠り所をこの地に求めたものと想われます。

天智帝の子弓削皇子も壬申の乱後の微妙な立場を生きました。

持統女帝の吉野行幸に随行した皇子は、離宮の井戸の上を鳴き渡って行ったほととぎすの声に托して、

ひそかな懐旧追慕の情を額田王に訴え、

これを受けた額田王はわが心とからだのうちそとを通り過ぎていった人々の回想追憶の悲しみを詠いました。

この贈答歌はお二人の真情が惻々と伝わりますし、

その舞台はただ空しい時間と風だけが吹き過ぎて行くこの山峡が最もふさわしいと感じます」

・・・・・

万葉歌碑が立つ

・・・・・・・

談山神社所蔵粟原寺鑪盤銘

此粟原寺者、仲臣朝臣大嶋、惶惶誓願、奉為大倭国浄御原宮天下天皇時、日並御宇東宮、

故造伽檻之、爾故比賣朝臣額田、以甲午年始、至和銅八年、・・・

・・・・・

この銘文によると、中臣大嶋が草壁皇子のために粟原寺の建立を発願し、

大嶋の後を受けて「比賣朝臣額田」が持統八年(694)から造営を始めて、和銅八年(715)に完成したという。

はたして額田王や。

← 次ぎへ      次ぎへ →

故地一覧へ

万葉集 万葉故地 桜井 粟原寺跡 額田王

万葉集を携えて

inserted by FC2 system