文祢麻呂墓

奈良県宇陀市榛原区八滝

朝戸開けて 物思ふ時に 白露の 置ける秋萩 見えつつもとな  巻8−1579

さを鹿の 来立ち鳴く野の 秋萩は 露霜負ひて 散りにしものを  巻8−1580

右の二首は文忌寸馬養

史跡 文祢麻呂墓

文祢麻呂は『日本書紀』・『続日本紀』にも登場する人物で、

壬申の乱では、大海人皇子(天武天皇)の軍で活躍した将軍の一人である。

天保二年(1831)墓誌、銅箱、ガラス製骨蔵器、金銅壺が発見され、ここが文祢麻呂の墓であることが明らかになった。

昭和57年、発掘調査を行ったところ、一辺約1.5bの土坑とこれを埋めた粘土などが見つかった。

その結果、墓は堅炭の上に墓誌、骨蔵器などを置き、この周囲を木炭、粘土、砂質土で埋め、

最後は粘土で全体を覆う構造であったことがわかった。

文祢麻呂墓は、代表的な奈良時代の墳墓であり、古代の上級官人の埋葬方法が明らかになった数少ない重要な遺跡である。

(文化庁・榛原町教育委員会)


墓誌

銅箱

緑瑠璃壺

金銅壺

文忌寸馬養の万葉歌碑

文忌寸馬養は、文祢麻呂の子で、奈良時代に鋳銭長官などをつとめた役人。

歌碑は文祢麻呂の墓域傍に立つ。

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