難波の京 難波宮跡

大阪市中央区法円坂

式部卿藤原宇合卿、難波の京を改め造らしめらゆる時に作る歌一首

昔こそ 難波田舎と 言はれけめ 今は都引き 都びにけり  巻3−312

難波宮跡

大阪に長く勤務したが、なかなか訪れることが出来なかった。いざ、と決めて出かけようとすると小雨が降りだす天気になってしまった。

地下鉄谷町4丁目を降りるとすぐにある。

林立するビルの谷間に遺跡があり、きれいに整備された遺跡公園だが実感はそれほどに沸いてこない。

1300年もの時間は戻らない。

この辺りが高台で、周囲は難波津と云って外交の表玄関の港であり、海がすぐそこまであったというのは全く想像がつかない。

近くに秀吉の建てた大阪城が見える。

秀吉は「難波のことは夢のまた夢」と辞世で云ったが、難波宮のことも発掘で確認はできたが、夢のまた夢である。

詳しくは案内板の記載を写す。

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遺跡の概要

発掘調査により難波宮は大きく分けて前・後の二回の宮殿遺跡とそれ以前の建物跡があることが明らかにされた。

前期難波宮跡は、すべての建物が掘立柱で屋根に瓦を葺かない建物であった。

7世紀の中頃、飛鳥で蘇我氏が亡ぼされて後、都が難波に遷されてつくられた難波長柄豊崎宮がこれにあたると考えられる。

天武天皇朱鳥元年(686)に火災で全焼するまで続いたと考えられる。

この宮殿は最初の本格的な中国風の都といわれる大和の藤原京に先行するもので、古代国家の成立期の貴重な遺構である。

後期難波宮は、奈良時代の神亀3年(726)聖武天皇の時に造営された宮殿である。

大極殿や朝堂院の中心建物には礎石が用いられ、屋根には蓮華文、唐草文、重圏文軒瓦などの瓦が葺かれていた。

天平十六年(744)にはここ難波宮が首都と定められが、翌年再び平城京へ遷された。

前後二時期の難波宮の遺跡のほか、それ以前の大規模な建物跡もほぼ全域で発見されている。

港をひかえた難波の地は、5世紀以降外交、文化、経済、政治の要衝として栄えたことがしのばれる。

(大阪教育委員会)

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巻3−312の歌

藤原宇合は、神亀3年(726)知造難波宮事となり、工事完成は天平4年(732)という。完成の難波宮行幸のときの歌であろう。

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