逢 坂

滋賀県大津市・逢坂山

逢坂を うち出でて見れば 淡海の海 白木綿花に 波立ちわたる  巻13−3238

現在の滋賀県と京都府の境が逢坂で、ここは古代から「近江国」と「山城国」の境とされた。

『日本書紀』神功皇后摂政元年三月の条に、

武内宿禰、精兵を出して追ふ。たまたま逢坂に(忍熊王に)遭ひて破りつ。故、其の処を号けて逢坂と曰ふ。

『日本書紀』孝徳天皇大化二年の「改新之詔」に、

凡そ畿内は、東は名墾の横河より以来、南は紀伊の兄山より以来。西は赤石の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波の合坂山より以来を、畿内国とす。

大化の改新の詔に、逢坂山を越えればもう畿内ではないと云っている。外の国になるわけである。

逢坂山は現在も交通の要所で、国道1号線と名神高速道路が走り、激しく車が行き交う。峠には「逢坂山関址」の石碑が立つ。

平安時代以降はここに関所がおかれていた。

京都からこの峠を越えると、万葉歌によれば「白木綿花に波立つ」琵琶湖が見えるはずであるが、

現在は大津市街のビルが建ち並び遠くわずかに湖水が見えるほどである。

大和からの旅人は、この逢坂山を越えると畿内から離れ、いよいよ異国に入ると感慨を持ったらしい。

我妹子に 逢坂山を 越えて来て 泣きつつ居れど 逢ふよしもなし  巻15−3762

この歌は、越前国の味真野に流刑となった中臣宅守が狭野弟上娘子に贈った歌、

逢坂山を越えてしまった今となってはもう逢うすべがないと嘆き詠む。

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後世、百人一首で有名な蝉丸の歌に逢坂の関が詠まれている。

これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関  蝉丸

蝉丸は、この逢坂の関の辺りに住んでいた隠者とされる。

『後撰集』雑の部に、「あふ坂の関に庵室をつくりてすみ侍りけるに、ゆきかふ人を見て、蝉丸」としてこの歌が見える。

この近くには、蝉丸神社が3社もある。

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蝉丸神社  大津市大谷町

関蝉丸神社(上社)  大津市逢坂1丁目

関蝉丸神社(下社)  大津市逢坂1丁目

また、『源氏物語』関屋の巻はこの逢坂の関が舞台である。

かつてはかない契りを結んだ光源氏と、常陸介の若き後妻となっていた空蝉とが十二年ぶりに巡り会う。

光源氏が再び都の政界に復帰し、内大臣となって政権を握る。その願いが叶い、近江の石山寺にお礼参りに出掛けたとき、

ちょうど任期を終え都に帰る常陸介一行に出会うのである。

以来、光源氏からたびたび恋文が届く。

やがて常陸介が亡くなると、継子の河内介が下心を出してくる。

光源氏と河内介、空蝉はわが身のつらい宿世を悲しく思った。そして空蝉は尼となり、恋物語のヒロイン役を降りるのである。

逢坂の関や いかなる関なれば しげきなげきの 中を分くらむ

・・・・・

逢坂山の峠に小公園があり、百人一首の歌碑が3基ある。万葉歌碑がない、不満。

これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関  蝉丸

名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな  三条右大臣藤原定方

夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ  清少納言

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