菅浦 大浦

滋賀県長浜市西浅井町菅浦

小弁が歌一首

高島の 安曇の港を 漕ぎ過ぎて 塩津菅浦 今か漕ぐらむ  巻9−1734

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霰降り 遠つ大浦に 寄する波 よしも寄すとも 憎くあらなくに  巻11−2729

菅 浦

大浦

大浦

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琵琶湖の最北に位置する菅浦・大浦は、琵琶湖の最も美しいところと思う。

山々はいきなり湖岸に迫り、つづら折りの狭隘な道々、そして湖水はあくまで青く深い。

万葉の当時、「越の国(北陸)」に向うには、都から近江の国に入ると大津からこの地菅浦・大浦まで湖路を舟で進んだ。

ここからは険しい陸路の山越えで敦賀へ向う。

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大伴家持が国守として越中高岡に向った。

狭野弟上娘子の悲嘆の声を背に中臣宅守味真野に向った。

穂積老が配流されて佐渡に向った。

後世、紫式部も親父の転勤でいやいや着いてきた。1年で都に戻った。

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須賀神社 長浜市西浅井町菅浦

神社境内に、万葉歌碑(巻9−1734)がある。

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この神社は昔は菅浦大明神とも保良神社ともいった。

神社由緒には、天平宝字三年保良宮が営まれ、同五年から六年まで淳仁天皇が隠棲された、とある。ちょっと眉唾の伝説である。

『続日本紀』では、孝謙天皇の譲位で、天平宝字二年に淳仁天皇が即位する。

同六年孝謙上皇は淳仁天皇を非難して国政の大事を掌握する。

同八年淳仁天皇側の恵美押勝(藤原仲麻呂)が反乱を起し近江で敗死。

淳仁天皇を廃して淡路に配流。孝謙上皇重祚して称徳天皇となる。

『続日本紀』が正史ではあるが、この菅浦になぜ淳仁天皇の伝説が残るのであろう。歴史は勝者側しか語らない。

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