託馬野 朝妻

滋賀県米原市筑摩朝妻

笠女郎、大伴宿禰家持に贈る歌

託馬野に 生ふる紫草 衣に染め いまだ着ずして 色に出でにけり  巻3−395

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子らが名に 懸けのよろしき 朝妻の 片山崖に 霞たなびく  巻10−1818

米原市の琵琶湖湖岸に筑摩という集落がある。ここが万葉で詠われた「託馬」といわれる。

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筑摩神社

筑摩神社に伝わる「鍋冠祭り」は日本の三大奇祭といわれている。

1200年の伝統があるというが、何が奇祭かというと、「氏子の女性が褥を重ねた男性の数だけ鍋をかぶって神輿に従う」というのだ。

遊女でもあるまいにと思うがその昔は少々男女の関係に対しておおらかであったのかもしれない。

逆に、いつの時代か風紀の乱れを戒めようとした厳しい掟だったかもしれない。

江戸時代、ある女がそれを守らず鍋の数を減らして頭に載せ行列に加わったところ、神罰が当って鍋が破れて落ち、村人の笑い者になった。

女は恥ずかしさのあまり、宮の池に飛び込んで死んでしまった。

これを知った藩主井伊の殿様は「不幸な者を見せしめにするような祭りは神の心ではない」と中止させた。

村人は伝統の祭りが絶えるのはさびしいと願い出て、以来、数え年八つの幼女にすることで許しが出て、現在に引継がれているのである。

現在ではこのような醜い男女の関係を表現するものではないが、

それでもそばには羽織袴の男衆(可愛い稚児のお父さん)が竹の棒を持って警護している。「いや、なに、鍋が落ちるといかんでな」

(合田一道『日本の奇祭』を参考)

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この祭りが『伊勢物語』に登場する。第百二十段に、

むかし、男、女のまだ世へずと覚えたるが、人の御もとにしのびてもの聞えてのち、ほどへて、

近江なる 筑摩の祭 とくせなむ つれなき人の 鍋のかず見む

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(まだ男を知らない清純な女と思っていたが、誰かいい男と密かに関係していることを知ってしまって、

「なんやねん、オレには見向きもしないくせに、誰かとええ関係やて。

近江の筑摩の祭りを早よしてほしいわ。オレには冷たい女の、鍋の数、見たいもんや。」)

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筑摩の集落の北に「朝妻」の集落がある。古代から交通の要衝として栄えた港町である。

湖辺には「朝妻湊趾」の石碑が立つ。その説明文に、

「奈良時代、筑摩付近に大膳職御厨(朝廷の台所)がおかれ、

北近江、美濃、飛騨、信濃国等から朝廷に献上物、税物、また木材、食糧などと合わせて、

役人、商人などを運ぶための定期便が大津・坂本港へ出ていた」とある。

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だから万葉で詠まれた「朝妻」はこの地というには性急である。

郷土の万葉研究家や歴史研究家は地元の欲目もあってここがその「朝妻」であって欲しいと思っている。

私も地元出身のひとり、港町と栄えたこの地を万葉の故地としたい。ところが、「朝妻」はもう一首あって、

今朝行きて 明日には来ねと 言ひし子を 朝妻山に 霞たなびく  巻10−1817

連ねて詠まれたこの二首は、どうしても山のイメージが強く、ここ朝妻湊からは遠のいてしまう。

実は、通説は奈良県御所市朝妻という地になっていて、その朝妻からは金剛山などが望め、歌のイメージに近い。

奈良大和の葛城の山々、近江の朝妻湊、いずれの「朝妻」かは読み手の描く地におまかせで歌を味わってみてはいかが。

一方、先に述べた「託馬野」はこれを「タクマ」と読んで肥後(熊本県)の託摩郡とする説がある。

こちらは歴史的にみても御厨があった地として古代から名も知られる、この筑摩に軍配をあげてほしい。まあ、1勝1敗かな。

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