鴨 山

島根県益田市高津

柿本朝臣人麻呂、石見の国に在りて死に臨む時に、自ら傷みて作る歌一首

鴨山の 岩根しまける 我れをかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ  巻2−223


人麻呂終焉地鴨島展望地

高津松崎の碑

柿本人麻呂の終焉の地とされる鴨山(鴨島の山)は、万寿3年(1026)の大地震により海中に没した。

現在は益田川口から1`の沖合いに沈んでいるという。

益田市久城町の海岸に人麻呂終焉地鴨島展望地があるが、青い水平線の海が広がるだけで何もみえない。

海岸に掲示している看板を写真に収めた。眼前の海に絵のような鴨島が浮んでいたのだろう。

人麻呂の没後、鴨島に人麻呂の神像を祀る祠があったとされ、この大地震の津波で祠も流失した。

しかし、この人麻呂神像が松崎という地に漂着したため、郷民は社殿を再建したという。

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高津松崎の碑(碑文)

石見の国高津の沖に鴨島となんいひて大なる島山あり。

神亀元年甲子三月十八日柿本のおほん神かむさりませし所にて御辞世のやまと歌、萬葉集、拾遺集にのせられたり。

此所に御廟尊像は自らつくらせ給うとなん寺をば人丸寺と名づく。

都より北海に渡海の船、此地によせ来り、賑わしくさかんなりし地なりしに、

後一条院の御宇、萬寿三年丙寅の五月、高波のため彼の島をゆりこぼたれ、宮寺を初め民屋残りなく海中に没しぬ。

しかありしに、彼鴨島のおほん社の前に二枝にわかれたる松あり、此松の枝、尊像を帯て高角浜によせ来りぬ。此処を松佐起社と名づく。

人々信感に堪えず、其処に社と寺を造り尊像をもすえ奉りしに、

延宝九年に今の高角山に社地をうつし奉りしまで、年凡そ六百有余年此松崎にて祭事をいとなみ奉るとなん。

この松崎に二枝の松の古木ありて御腰掛の松ととなえ来りぬ。

しかあるに、大方古木となりし故に、植かゆることたびたびなれども、もとより西北の大海の辺にて風のかくる砂に吹きまくられ、

または枯れることあまたたびするがゆゑに、彼の松のかたはらに石を立てて古跡のしるしとして後世につたへつぎつぎうゑそへんとす。

くらうの輩かたちにあはせて此事をこたびをこなふにつきてそのことを書せよ。

ある人もてあつらふるにいなみがたくあせながれてせなかをつるほすながら秀筆を記すものにこそ

神さそふこきなかれと守るらし里のおきなのたてし石ふみ

                       文化八年辛未三月十八日      正二位前中納言 藤原持豊

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高津柿本神社

松崎の地に社殿があったが、延宝9年(1681)津和野藩主が水難を案じて高津城跡の現在地に移した。

境内にある万葉歌碑と絵馬

高津柿本神社の境内奥に、万葉公園がある。

園内休憩所の裏に、「柿本人麻呂終焉之地鴨島遠望台」碑がある。揮毫は梅原猛。

説明文に

柿本人麻呂の終焉地鴨島は、今から970余年前(万寿三年)5月の大津波によって、海底に没した。

昭和52年5月・7月の13日間、「水底の歌」著者、梅原猛調査団40余名は、

中須町益田川河口1000b沖合いの大瀬に大規模な科学的調査を敢行した。

海底地形をはじめ、石柱・石碑状の各種岩塊は、歌聖人麻呂の秘史解明に貴重な資料を提供することとなった。

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公園内に2基の万葉歌碑がある。あわせて、近くの石見空港駐車場の歌碑も紹介する。


石の広場 巻4−743

人麻呂展望広場 巻2−133

石見空港駐車場 巻2−132

県立万葉公園は、平成17年4月再整備が行なわれ、人麻呂展望広場に33基の歌碑が設置された。未訪である。

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